「スマラン5日間戦闘(7)」(2023年07月18日)

中部ジャワ在住日本人用に肉牛およそ150頭がブガガン地区で飼われていたのを奪取す
る作戦も展開された。その任務は第一初等中学と工学学校に与えられ、夜8時に適宜武器
を持って学校に集まるよう両校のリーダーは他の生徒たちに命じた。生徒の中には台所包
丁や投石機を持って来た者もあった。

両校生徒はブガガンで合流してからそこにいた牛を一頭残さず連れ去った。ブガガンから
市内スタジアムへの長蛇の列が延々と続いた。一頭に2〜3人の生徒が取り付いたようだ。
牛はスタジアム外周の鉄条網で囲まれた中に追い込まれ、午前1時に全作業が終了した。


日本軍の持っている武器兵器を取り上げて自らを武装させることは、生徒たちにとってき
わめて重要な方針だった。ジャワ島の各地で日本軍から武器兵器を譲り受けることが成功
した知らせを聞くにつけ、かれらのフラストレーションが高まった。スマランの城戸部隊
はたいへんに頑固で強情であり、インドネシア人の独立願望に同情して心を開こうとせず、
武器兵器譲渡の要請を高飛車にはねつけていたのだから。

生徒たちは思い余って、日本人が住んでいる家を襲撃することにした。軍人の家であれ、
桜組と呼ばれた軍属の家であれ、集団で訪問して武器を渡せと要求したが、たいして成果
があがらなかった。

夜に高等中学校の表を憲兵隊のパトロールが車で通りかかったとき、生徒たちが集団で車
を止めて取り囲み、スナルヨとムハルトが日本刀を抜いて憲兵隊員の首に当て、拳銃を渡
せと要求した。初めてのことだから、スナルヨは震えながら日本刀を両手で握っていたた
め、仲間に拳銃を受け取らせた。両手で握ったのは憲兵隊員が抵抗した場合のことを考え
たからだったが、全神経を憲兵隊員に集中していたために仲間のだれが拳銃を受け取った
のかがはっきりせず、せっかくの獲物は自分の手に入らなかった。ムハルトはナンブ拳銃
を手に入れている。

また日本人が持っていた自動車も何台か手に入った。日本人の住んでいる家を訪れて話し
合い、お互いに節度を守った形で要求を出して受け入れられ、平和的友好的に自動車を譲
渡されたケースもあれば、夜中に大勢が日本人の家に押しかけて包囲し、相手に有無を言
わせずに運び去るケースもあった。ところが運転できる者がひとりもおらず、夜の路上を
みんなで車を押して学校まで運んだ。手に入った自動車は校庭に並べられた。


8月17日、インドネシア共和国独立宣言のニュースが全国に渦巻いて民衆を踊りあがら
せた。スマランには最初、同盟通信社を通してニュースが届き、それを知った新聞記者の
シャリフ・スライマンがこのニュースを公式に市民に知らせるためにどうするかを考えて、
独立準備委員会スマラン支部に発表させるためにジャワ奉公会館に走った。会館ではその
とき、ウォンソヌゴロ法学士を議長にして準備委員会スマラン支部の会議が行われていた
のだ。

同盟通信の記者ミンタルジョもそこにやってきた。ふたりはこの重要なニュースを一刻も
早く市民に知らせなければならないという意見で一致し、会議が終わるのを待っていては
だめだということで議長に出てきてもらった。ウォンソヌゴロ法学士は手渡された記事を
一読して驚き、議場に戻って震える声で記事を読み上げた。議場は一瞬静まり返った。ひ
とびとは現実感を失って呆然としているように見えた。その反応にとまどったのか、議長
はもう一度記事を読み上げた。だが、静寂はまだ続いた。ところが次の瞬間にどよめきが
起こったのである。喜びの叫び声、手を叩く音、掌で机を打つ音、隣の者とおめでとうを
言い交す声の中に涙声も混じっていた。ひとびとは握手し合い、抱き合った。

その日の会議は中止になり、全員が起立してインドネシアラヤを斉唱してから、いそいそ
と会館を出て行った。[ 続く ]