「チュルリッとチャロッ(6)」(2023年07月17日)

たとえ形式上とはいえ、娘の身を社会が定めている路線の上に乗せることを一家一族が総
力をあげて行っている原理がそこに見られるのである。女がそのようなアテンションを受
ける社会で、男の構成員が女をどのように遇するべきか、男は女をどのように処遇しなけ
ればならないか、という男の規律面における感覚がほの見えてこないだろうか?

女の扱い方に関する男の規範像がそこに生じ、社会が求める規範から外れた男にマロがの
しかかってくるのである。それは単に夫の自尊心に関わるものごとにならず、妻のあり方
を損ない、社会秩序の乱れをも意味することになる。そのとき、チャロッは社会性を持つ
行為になるだろう。

マドゥラの格言に「女は出産で死に、男はチャロッで死ぬ」というものがある。インドネ
シアの種族別人口で第四位を占めるマドゥラ人の母体出産時死亡率がずば抜けて高いとも
思えないし、マドゥラ男が日々チャロッを行ってどんどん死んでいるはずもないから、こ
の格言は自然死以外で人間が死すべきケースとして社会が認めているものを謳いあげてい
るような気がする。

だからマロを抱いて世間から白い目で見られながらもチャロッの果し合いに二の足を踏む
マドゥラ男は社会が男と認めず、男がすわるべき座に着かせず、男が享受できる社会プリ
ビレッジを与えず、男としての社会生活から疎外され、そればかりか男としてあるまじき
人間として他のマドゥラ男からいじめられ迫害されることになりかねない。それがもっと
嵩じれば、マドゥラ人ではないと糾弾される懸念もある。もしも閉鎖的な村落部でそれが
起これば、その者は故郷を石もて追われることになりかねない。


生命のやり取りをするこのチャロッという行為に宗教はどのように関与しているのだろう
か?イスラム教は殺人について、戦争における敵とアッラーへの帰依を捨てた背教者以外
に対して行われる殺人を厳しく禁止している。しかしマドゥラ人ウラマたちは、二律背反
する宗教と文化の間でアンビバレンツに包まれている。

果し合いを行うマドゥラ男はたいていその準備段階で地元のウラマを訪れて心の準備をす
る。精神を調整し、勇気を高め、自分の運命に、できれば肉体に、加護をもらおうとする。
ウラマの中にはそれに関わろうとしない者もいるが、求める者の求めているものを積極的
に与えようとするウラマもいる。「やめろ」と言うウラマはいないようだ。マドゥラ人は
チャロッを社会文化のコンテキストで見ており、宗教者であっても宗教面からのアプロー
チをしないと語るコメントもある。

マドゥラ文化が持つ反宗教的な催事はすべてそうだ。チャロッばかりか、カラパンサピも
レモも、あるいは雨乞いの祭りであるオジュンも、イスラム教儀では認められないものな
のだ。文化の領域にある伝統催事は、イスラム教が入ってこようが現代法が入ってこよう
が、マドゥラ人は頑なに文化としてそれを維持し続けている。


チャロッを行うのはたいてい下層階級の人間だ。下層階級で使われている日常言語はマパ
スと呼ばれる粗野で下品な、ガラの悪い言語であり、悪態や嘲罵、罵倒や呪いなどの感情
表現が豊かに行えるために下層階級者は普通のマドゥラ語よりもマパスを使う方をはるか
に好んでいる。怒り・憎しみ・侮蔑などの自分の感情を自由に発散できるからだろう。

闘争的な精神はマパスによって燃焼し、マパスが精神の闘争性を高めることから、マパス
がチャロッの維持に一役買っているという意見もある。しかし基盤にあるのは人間の闘争
的精神傾向なのであって、マパスがなくなれば闘争的精神傾向が穏やかなものになるのか
どうかは疑問だ。

どうやら現代マドゥラ人にとってチャロッの定義はマロを基盤に据えたチュルリッによる
斬り合い殺し合いであり、形式を問わない方向に変化しつつあるように思われる。たとえ
日常の町中で数人がひとりの男に襲いかかってなぶり殺しにしたとしても、その両者の間
にマロの関係が存在したことが明らかになっていれば、世間はそれをチャロッと判断する
のではあるまいか。

マドゥラ人にとってチャロッ殺人は他の殺人と異なるものである。マロ不在の殺人はただ
の殺人であり、またいかに強い女剣士であっても、チャロッ殺人は行えない。チャロッは
男のものだからだ。法の前の平等を主張する現代法はチャロッ殺人を「怨恨による殺人」
としか見ないだろうが、マドゥラ文化はそれを男の花道にしているのである。[ 続く ]