「スマラン5日間戦闘(8)」(2023年07月20日) その日は金曜日だった。毎週金曜日にはラジオスマランが大モスクで行われる合同礼拝の 説教を放送していたから、たくさんの市民が説教を聞くためにラジオを点けていた。そし て思いがけなく独立宣言のニュースを耳にすることになったのだ。 軍政当局はそれを知って激怒し、ラジオスマランの職員を呼びつけて叱責したが後の祭り だった。ニュースは口伝えで民衆の間にどんどん広がって行ったのである。 新聞シナルバルにも同盟通信の別の記者から独立宣言の情報が入った。シナルバルは当局 からの発禁処分を恐れて、その記事を本号に入れず号外として出すことにした。がぜん、 社内が慌ただしくなった。新聞社の幹部の中に高等中学校で教えている人物がいた。かれ が高等中学の生徒を狩り集めて号外を市中のすみずみにまで配布させた。 インドネシア共和国独立宣言という事実を受けて、地元の独立運動活動家たちがスマラン も新生共和国に帰属する宣言を出すべきだと主張し、中等学校生徒たちがその実現のため に動き出した。 ウォンソヌゴロ法学士は日本軍政下におけるスマラン州の副州長官だった。州長官は日本 人だから、かれがスマラン行政のプリブミ最高位者になる。中等学校生徒たちは副州長官 に、インドネシア人による行政機構の新設を要求した。 1945年8月19日、ウォンソヌゴロ副州長官はスマラン市民に対する布告第1号を新 聞シナルバルの折り込みビラの形で発出した。ビラに書かれた内容は次の通りだ。 布告第1号 全住民へ インドネシア独立委員会とジャカルタナショナルコミティの発表にもとづき、スマラン州 インドネシア国民の名においてここに、スマラン州地域の秩序と平安を維持するための次 の暫定措置を公表する。 1 本日、2605年8月19日13時をもって、インドネシア共和国地方行政機関とし ての措置が開始される 2 インドネシア共和国政府に反対するあらゆる行為に対して厳しい対応が与えられる 3 権利が与えられている者以外の住民が所蔵している銃火器は警察に提出されなければ ならない 4 掲揚される国旗はインドネシア共和国の紅白旗に限られる 5.公共の治安は厳しく統制され、維持される 6 最後に、全住民は普段通りの平常な暮らしを営み、勤労し、各々の会社・商店・ワル ンの営業をいつものように行なうべく勧めるものである スマランにて、2605年8月19日 スマラン副州長官 ウォンソヌゴロ スマランがインドネシア共和国地方行政区と自らを規定したことによって、日本軍政下の 機構として存在していた青年団や青年隊はAngkatan Muda Republik Indonesia (AMRI = インドネシア共和国青年団)と名を変えて市内ボジョン通り87番地に本拠を置いた。そ れに倣って各職域でも青年たちが会社や役所単位の青年団を結成するようになった。 青年たちは9月17日に独立宣言一ヵ月記念として大パレードを行うことにした。憲兵隊 が以前からパレード禁止を住民に命じていたことから、インドネシア共和国はもはや日本 軍政の規則に縛られない存在になったことを示すための挑戦とデモンストレーションとし てそれを行うことが提案されたのである。[ 続く ]