「スマラン5日間戦闘(9)」(2023年07月21日) しかし高等中学生徒のひとりがケンペイタイへの挑戦に対する不安を表明した。独立が成 し遂げられたにもかかわらず依然として恐怖が存在していることをそれは示していると急 進派は考えた。実行動を示して、インドネシアは既に日本の支配下から脱け出したことを 証明しなければならない。プティ・ムハルトは言い切った。「わたしはただひとりだけで もパレードを行う。怖がる者は家にいるがいい。共和国の独立性を示したい者は一緒に歩 こう。」 当日、スマランの町中は人間であふれた。たくさんの住民があとからあとから路上に出て きて、独立を祝い、唄い、行進した。軍政当局も憲兵隊も、何の動きも示さなかった。 前レジーム主体者の日本軍政からインドネシア共和国への主権と主管の移譲が進められは じめた。敗戦した日本側は勝者の連合国から占領地における現状凍結と治安の維持を命じ られていたものの、その言い付けを真剣に遵守してインドネシア側と流血の事態を招くほ ど馬鹿馬鹿しいことはないという見解をたいていの日本人が持ったのではあるまいか。日 本軍政下に日本人の指揮で行われていた行政や民生の諸業務をインドネシア人に渡すだけ の話なのだから。 8月20日に中部ジャワの鉄道運行を総括していた陸輸総局から中部ジャワ鉄道闘争コミ ティに業務の移管が行われた。それを皮きりにして、宣伝部の移譲、さらに水道やその他 の公共事業もその経営がインドネシア人の手に移された。ラジオ放送局もRRIスマラン と名前を変えた。 しかし衝突が皆無だったわけでもない。スマラン港で武力による闘争が起こった。港倉庫 に日本軍の軍需物資が蔵置されていたのだ。内容は食糧や衣料がメインを占めていた。港 の守備隊が倉庫の明け渡しを拒んだことから、8月25日に武器を使っての戦闘がはじま り、8月30日になって日本軍守備隊を降伏させたインドネシア側が港を掌握した。双方 にたくさん死者が出た。倉庫にあった日本軍の物資は三分の一が住民に分配され、残りは スマラン行政府に納められた。 その戦闘に先立って、ジャカルタのインドネシア共和国政府が国内治安を統括する組織の 設立を発表した。1945年8月22日にインドネシア独立準備委員会がその決定を行い、 8月23日にスカルノ大統領がそれを公表して治安維持に責任を負う組織が公式に誕生し たのである。Badan Keamanan Rakyat(国民保安団:ベーカーエル)と名付けられたその 組織は国内治安を最優先ミッションとする武装組織であり、その名称を見るかぎりその時 点で共和国上層部は戦争を使命とする軍隊という意識をそれほど強く持っていなかったよ うに思われる。 インドネシア共和国地方行政区になったばかりのスマランも即座にそれに反応し、スマラ ンのBKRが発足して編成が開始された。スマランのペタ大団長が司令官に任じられ、兵 員募集が始まった。旧ペタ所属者から青年団・警防団・兵補・学徒隊などの経験者が続々 とその募集に応じた。しかしスマランのペタは8月24日に解散させられ、武器はすべて 日本軍が回収したため、スマランBKRは武装に欠けた保安団にしかならなかった。9月 10日にスマランBKRは、陸上BKRと海上BKRに二分された。 1945年10月1日、インドネシア共和国スマラン政庁が公式に業務を開始し、10月 13日にウォンソヌゴロ法学士が知事に就任した。統治行政は徐々に日本軍政当局から共 和国スマラン政庁に移管されていった。だが、スマランの治安を統括していた城戸部隊は インドネシア側への歩み寄りをまったく示さなかった。[ 続く ]