「チュルリッとチャロッ(8)」(2023年07月20日)

多分その変化が起こるさきがけとなったのが、タパルクダ地方に住むマドゥラ人プラナカ
ンの間で伝説になっているSakeraという人物ではないかと想像される。サケラの物語を読
むとかれが愛用した武器が最初からチュルリッと呼ばれているのだが、かれが使った鎌の
変形版がそのころ既にその名称で流布していたのであれば、かれはさきがけになれないだ
ろう。マドゥラ人がチュルリッの発端にサケラの名前を置くのであれば、「武器としての
鎌であるチュルリッ」は最初にサケラの手にあった現物が後にそのコンセプトを得たと考
えるのが自然であるような気がする。

バンカラン出身の貴族がパスルアンのバ~ギルに移住した。その何代目に当たるのかよく
わからないが、その家系にサディマンと名付けられた男児が生まれた。成長したサディマ
ンはバギルのカンチルマスに開かれたサトウキビ農園で働き始めた。19世紀初めごろの
時代のことだ。

そこでマンドル(作業監督人)になったサディマンは公平で包容力のある人柄を作業者や
近隣住民に示し、コミュニティで愛される人間になった。身軽に自分の身体を動かして他
人に苦労を強いない姿勢をひとびとは称賛し、サディマンにサケラの愛称を与えた。サケ
ラとはそういう意味なのだそうだ。サケラが農園に出るときは常にチュルリッを左腰に差
していた。


ある年の収穫期が終わったあと、オランダ人農園主は農園の面積を広げるためにプリブミ
農民の土地をあさりはじめた。できるだけ安くできるだけ多くをモットーにしてその強欲
オランダ人はさまざまな非人道的手段を使ったために、サケラは心を痛めることになった。
中でも、プリブミに対する統治行政を行う地区役人に巨額の褒美を約束して土地を安く売
らせるよう強要させたため、サケラは役人の行動を妨害するにいたった。

役人のミッションはたいした成果があがらず、農園主に非難されたために役人はその原因
を説明した。「おたくのマンドルが邪魔をするんですよ。」

農園主は烈火のごとく怒った。「わしの使用人がわしの計画を邪魔するとはなにごとか。
おいマルクス、サケラというマンドルを始末してしまえ。」

農園主の付き人で秘書役のオランダ人マルクスは始末の仕方を考えた。サケラを怒らせ、
こちらにかかってこさせて、それを返討だ。


ある日、サケラがいつものように農園でマンドルの仕事をしていると、マルクスがやって
きて作業員をどなりつけ、「仕事ぶりがなっていない。鞭打ちの罰を与える。」と言って
用心棒に鞭打たせた。「作業員はちゃんと仕事をしていますぜ。」とかばおうとするサケ
ラに、「じゃあ、お前が鞭打ちを受けるか。それともかかってくるかっ!」とマルクスが
煽る。

マドゥラ男の血がカッと騒いだサケラはチュルリッを抜いた。用心棒たちとの対決はあっ
けない血祭りに終わり、最後にサケラのチュルリッがマルクスの血をも吸ったのである。


事件の報告を聞いた農園主はすぐにレシデン閣下に届け出た。その時代、レシデン行政区
の警察権と裁判権は行政区最高統治者のレシデンが握っていた。農園主はことさら、プリ
ブミがオランダ人を殺したという点を強調した。被統治者が統治者を殺すことはオランダ
東インドにあってならないことであり、殺害犯を死刑にしなければ植民地統治行政のたが
が緩んでしまう。反抗する原住民は何が何でも厳罰に処して反抗姿勢が広まらないように
しなければならないという理論が、東インドに構築された植民地主義の底流に横たわって
いた。理非曲直よりも政治意識がはるかに強い影響力を事件にもたらした。

サケラは逃げて隠れた。警察は総力をあげて捜索したが、なかなか見つからない。すると
オランダ人農園主に協力する地区役人がサケラ逮捕の妙案を出した。マドゥラ文化の人間
には同文化の人間が執るであろう文化行動がよく分かる。サケラは必ず母親に会いに来る
から、母親の家を見張っていればいい。[ 続く ]