「スマラン5日間戦闘(10)」(2023年07月24日)

中等学校生徒たちは武器を欲しがった。独立インドネシア共和国を守護するのはわれわれ
若者だ。ところが武器がないために戦闘訓練もままならない。生命を賭して国を護るため
には武器を手に入れることが絶対に必要だ。

そんな性急な若者の血を正しい方向に導くためにプティ・ムハルトは骨をおった。「もし
もきみたちが武器をその手に握った暁には、きみたちは共和国政府の人間にならなければ
ならないのだ。政府の規律に服さないただの武装集団になってはいけない。そんなものに
なれば、身を滅ぼすだけだ。」

かと言って、ただ漫然と武器が天から降って来る日を待つわけにもいかない。若者たちに
は任務を与えて仕事をさせなければならない。


その時期、警察がインドネシア共和国の持っている唯一の武装機関だった。高等中学校教
員たちからアイデアが出された。かれら硬派の生徒たちを補助警察員にしてはどうだろう
か?

スマラン警察との話し合いが始まり、警察上層部はそのアイデアを受け入れた。幹部のひ
とりフゲン・イマン・サントソ警部補がそのアイデアに大いに賛成し、上司に説いてその
実現に貢献したのである。フゲン警部補は日本軍政期に警察学校高等科を卒業して警察幹
部を務め、後に1966年には内閣大統領府官房、そして1968年に国軍警察軍司令官
に上り詰めた人物だ。そのころインドネシア国軍は陸海空警察の四軍制を採っていて、警
察は軍の一部門として末っ子の位置におかれていた。警察が軍隊から分離したのは、もっ
と後の時代のことだ。ともあれ、警察軍司令官は将軍であるため、故人になったフゲン氏
はフゲン将軍と今でも呼ばれている。

かれは腐敗行為を嫌って正直に生きようと努めた、きわめて潔癖な人物だった。インドネ
シアに賄賂を受け取らない警察員が三人いるというジョークのひとりに挙げられて、国民
の間でいまだに人気を博している。潔癖な生き方を示してオルバレジームの腐敗行政を批
判した、と言うよりも世論がかれの生き方を吹聴してレジーム批判に使ったと言うほうが
当たっているのかもしれない。そのために警察軍司令官の座をわずか三年で取り上げられ
て公職から排除され、引退生活に入った。

賄賂を受け取らない警察員のジョークとは、道路脇に置かれて自動車の運転者をけん制す
る警官像patung polisi、自動車の走行速度を抑制するスピードバンプpolisi tidur、そ
してフゲン・イマン・サントソが賄賂を渡しても受け取らない三人のポリシなのだ。


中等学校生徒を主体にする補助警察員2個中隊ができあがった。かれらはしばしば生徒警
察Polisi Pelajarとも呼ばれた。補助警察員は茶色の半ズボンと上着を着てカービン銃を
持ち、市中の要所の警備に当たった。鉄道駅・貯油場・郵便局・ラジオ局・運河に架かる
橋などが警備の対象になった。

9月25日、補助警察員たちがBKRの一個分隊と共同で、森林防衛隊が使っていた銃火
器をカラントゥガ警察署に止まっていた数台のトラックから押収した。その武器はジャテ
ィガレの城戸部隊に届けるために運ばれてきたものだった。

BKRをはじめ他の国防機構を武装させるために、日本軍が取り上げたペタの武器兵器を
譲渡してもらおうと、10月3日にスマランBKR司令官が城戸少佐と会談した。しかし
その話し合いは結論に至らず、マグランの中村少将の決裁を仰ぐことになったため、その
夜両者はスマランからマグランに走った。

翌朝、中村少将の決定が得られた。それに従って、ジャティガレの軍営にある小銃5百丁
と弾丸1千個を城戸少佐はインドネシア側に渡した。[ 続く ]