「スマラン5日間戦闘(11)」(2023年07月25日)

10月5日、およそ2千人のインドネシア人青年らがジャティガレの軍営を包囲して武器
を渡せと要求した。交渉の末、城戸少佐は小銃2百丁と弾丸6百個を追加することに同意
した。それはペタを解散させたときに取り上げた武器の一部だった。

その10月5日にジャカルタで、状況の推移によって国防のコンセプトに硬化が起こった。
インドネシア共和国というものの存在を頭から否定するNICA(オランダ東インド植民
地文民政府)が東インドに復帰してきてインドネシア共和国を武力で撲滅しようとしたた
めに、共和国側は国内治安=戦争という概念の転換に迫られたのである。

国家治安機構がBadanという平和的な名称とコンセプトで収まっていては済まないことが
明らかになり、戦争を使命とする軍隊への移行が避けられなくなった結果、国民保安団は
国民保安軍Tentara Keamanan Rakyatに変更された。しかし保安という言葉を使い続けた
のは、侵略戦争を否定するスカルノの理想主義の現れだったように推測される。スカルノ
レジームの末期にマレーシアへの軍事侵攻が行われたが、スカルノはそれを侵略ではない
と否定するだろう。あれは大英帝国主義をマレーシアの地から追い落すのが目的であり、
マレーシアの地を侵略することが目的だったのではない、と。それはそれとして・・・


ジャカルタでは10月2日から青年層を主体にして、武器を手にしたインドネシア人市民
が随所で戦後処理のために進駐して来たAFNEI軍に対する武力行動を開始した。

バンドンでは9月27日朝、ジュアンダ技師が率いる鉄道局職員によって鉄道総館が奪取
され、独立派青年層は郵便電信局本部を占拠した。日本人の手から主要な公共機関とその
運営をインドネシア人の手に奪い取る動きがあちこちで始まり、10月10日には日本軍
による治安維持体制を突き崩すためにインドネシア側の戦闘行動が始まった。

ジャカルタの制圧にかかりきっていたAFNEI軍も急遽、マクドナルド准将指揮下のイ
ギリスインド軍第23旅団を鉄道でバンドンに派遣し、10月12日にインド人の大部隊
がバンドンに入っている。

そのような各地における状況の推移は刻々とスマランにも伝わって来た。スマラン住民に
も、AFNEI軍進駐がインドネシア共和国にもたらすであろうものが何であるのかとい
うことが明瞭な形を取って推測できたにちがいあるまい。AFNEI軍が、と言うよりも
実態はAFNEI軍に紛れたNICA軍がスマランにやってくる日に備えて、日本軍の手
中にある武器をすべてインドネシア人の手に持たせなければ、インドネシア共和国は消滅
するかもしれないのだ。

太平洋戦争終結直後にジャワ島各地で起こった一連のできごとの詳細は拙作「スラバヤの
戦闘」< http://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html >をご参照ください。


城戸少佐が約束した武器の譲渡は10月7日に終わった。だがNICA軍との戦争にそん
な数ではものの役に立たない。依然として完全武装で治安維持活動を行っている城戸部隊
もインドネシア共和国の公式軍隊であるTKR(国民保安軍)に任務を譲り、TKRを武
装させるように協力してほしいという要請を携えて、10月12日にAMRI代表者が城
戸少佐に会見を申し入れた。大勢の青年や学徒たちが随行してジャティガレの軍営を取り
巻いた。ほとんどの者が竹槍だけで武装していた。

午前中いっぱい、はなはだ険悪な雰囲気がジャティガレ一帯に漂い、衝突が起こりかねな
いと懸念されたためにウォンソヌゴロ知事が担ぎ出されて会見に加わった。城戸少佐は1
60丁の銃を譲渡した。そんな数では足りないという青年層の不満を一身に担って知事は
もっと数を増やしてもらうよう中村少将の裁断を仰ぐため、城戸少佐と共にマグランに急
行した。ところが中村少将の姿勢が変化していたのである。[ 続く ]