「チュルリッとチャロッ(10)」(2023年07月24日)

マドゥラ島では1970年代まで、男が家から出るときはチュルリッを左腰に差していた。
それは決して農作業に出かける農夫の話ではない。農作業に出る農民は鎌を持って家を出
る。農民がチュルリッを持って家を出る時は農作業をしに行くのではない。

1980年代終わりごろまで、外出に刃物を持って出かける種族がインドネシアの中にた
くさんあった。80年代終わりごろに親しいインドネシア人から聞いた話をわたしはいま
だに覚えている。国有事業体に勤めるかれは、総務関係の仕事のためにパレンバン支社に
出張した。わたしにその土産話をしてくれたのだが、その中にパレンバンの男たちはみん
な刃物を持って外出するという話があった。ジャカルタっ子であるかれもそのありさまを
奇異に思ったため、支社の者に尋ねたそうだ。護身用の武器を持って外出しなければなら
ないほどパレンバンは危険な町なのかと。そしてこんな答えを得た。
「いや、危険は何もない。パレンバンは安全で平和だ。刃物を持ち歩くのは、特に何のた
めということでもない。ただ、持って出ないと町中で自分が素裸で歩いているような感じ
がするんだよ。」


わたしがバリ島最南端にほど近い村にジャカルタから移り住んだとき、バリ島村落部の住
民が男も女も鎌を持ってウロウロしている姿を目にしてわたしはバリとジャカルタ首都圏
の文化の違いを強く感じた。ジャカルタの郊外や首都圏辺縁の村落部ではたいていの男が
golokを腰に差していたから、その違いが特に深い印象をもたらしたのだと思う。

ゴロッとは鉈のことだ。スンダ文化ではたいてい木製の鞘に収まった重い鉈を腰に差して
村落部の男たちがウロウロしているのが普通だったから、インドネシア新参者のわたしは
ジャカルタの都会の姿と村落部の様子の違いを目にしてその落差に驚かされた。ジャカル
タはブタウィ文化と言われているものの、その基盤のもっとも底辺にはスンダ文化が置か
れていることを忘れてはなるまい。

今でこそゴロッは立木を切ったり藪を切り開いたりするのに使われているが、昔は王様が
使う武器だった。ゴロッという言葉自体が古代スンダ語であり、最初からこの武器の名称
として使われたようだ。パジャジャラン王国ジャヤデワタ王のとき、西暦1518年に書
かれたサンヒヤンシクサカンダンカルシアンの書に王の使う武器が記されており、その中
にゴロッが混じっている。

今ではゴロッの刀身の素材に鋼も使われているものの、昔はもっぱら鉄だったようだ。鋼
が主流にならなかったのは、鉄の方が研ぎやすいという理由だったとされている。研磨師
が頻繁に王侯貴族のゴロッを研いでいたのかもしれない。だから鋼で作られた刀剣よりも
重さがあり、スピードを付けて振れば衝撃力は大きいものになっただろう。

ゴロッは世にある一般的なマチェテと似たような形をしている。しかし長さは短めで、重
い。武器としてのゴロッはブタウィのプンチャッシラッによく登場するので有名だ。ブタ
ウィのジャゴアンは昔から素手の格闘技に長じ、また武器としてゴロッを常に携帯して必
要に応じて使った。ジャゴアンのゴロッは日本の無頼用心棒にとっての一本刀のようなも
のだったと言えるかもしれない。さて、バリ人の鎌の話に戻ろう。


で、そのバリ人の鎌がたいへんな力を持っていることを目の当たりにして、わたしは驚嘆
した。インドネシアでは全国どこでも雨季に入る前に、生活環境内にある茂った木々の枝
葉を切り落とすのを習慣にしている。わたしの村でも丈高く伸びた草を切り払い、茂った
木の枝や幹を切り落とすことを住民が総出で、勤労奉仕として行っていた。

そのとき、地元民はみんな鎌を持って出て来るのだが、その鎌一本ですべてを行うのであ
る。かれらは直径数センチの枝を鎌でえいやっと切り落とし、幅10センチ近い邪魔な木
の幹を鎌ひとつでコツコツと数回叩いて切り取ったのだ。スンダ文化では鉈で行われるこ
とが、バリでは鎌でなされていた。バリ人の鎌はスンダの鉈と遜色のない殺傷力を持つ武
器として使えるにちがいあるまい。[ 続く ]