「チュルリッとチャロッ(終)」(2023年07月25日)

そして十年ほど経過してから、鎌で斬られた人間が10分も経たないうちに死ぬ事件が身
近に起こって、バリ人の鎌の威力が証明された。バリ人の普通の家庭にあるのは農具とし
ての鎌だけであり、かれらは刀剣としてのチュルリッなどを持たない。だがその鎌を武器
として使えば、人間を殺傷するのも困難でないことが実証されたのである。


わが家は角地にあり、道路を隔てて斜め向かいに個人住宅がある。その家に真昼間、空巣
が入った。わたしはその事件を何ひとつ目撃しておらず、パトカーがやってきてはじめて
異変があったことに気付いた。次のストーリーは隣近所の住民から聞いた話を元にして構
成したものだ。

ふたりの男がオートバイに乗ってやってきて、オートバイをわが家の角に止め、ひとりが
そこで見張りに立った。もうひとりがその家の表門の錠を破って静かに敷地内に侵入した。
家の主が仕事に出たあとを狙って行った計画的な犯行だ。この賊は何日も前からターゲッ
トの家の様子を観察していたそうだ。

ところがかれらの思いもよらないことに、家の中にその家の奥さんがいたのだ。奥さんは
賊が侵入したことを知り、家から遠くない場所で仕事しているご主人に電話して急を告げ
た。ご主人はおっとり刀でオートバイに乗り、自宅に急行した。もちろん手に持っていた
のは刀でなくて農具の鎌だったが。

自宅に着いたご主人は鎌を手にして表門から中に飛び込んだ。玄関の鍵を破って家屋内に
入り、金目の物を物色していた賊が慌てて庭に出てきた。そして賊は大型ナイフを手に持
ってご主人に襲いかかったのである。ご主人は近隣の住人の加勢を得ようとして「トロン、
トロン!」と叫んだそうだが、わたしには聞こえなかった。向かいの家の住人がそれを聞
いて現場を覗き、事件を知った。しかし刃物を手にして対決しているふたりに近付くこと
はせず、遠くから見守るだけだったそうだ。そのときには、外の見張り役はオートバイに
乗って逃走していた。

斬り合いは大型ナイフよりも鎌のほうが強かった。賊は鎖骨の左右二カ所に傷を受け、開
いていた表門から外に逃げ出した。外で成り行きを見守っていた村人の数人がその後を追
った。賊は50メートルほど走って別の家の表に止められているオートバイを目指した。
それを奪って逃げようというわけだ。するとその家のご主人が賊をオートバイ泥棒と思っ
て、オートバイのエンジンをかけようとしていたその賊に飛び掛かり、賊を殴り倒したの
である。賊は殴り倒されて地面に転がり、動かなくなったそうだ。多分、そのときに事切
れたようだ。賊を殴り倒したほうのご主人はきっと後味が悪かったにちがいあるまい。

だれかが事件を通報したのだろう。ほどなくパトカーがやってきた。わたしがその事件を
知ったのはそこからだ。警察官が「大量の血だ」と話していた。そのあと救急車がやって
きて死体を運び去ったようだ。わたしは野次馬になる気がなかったから二階のテラスから
眺めていただけで、家の外に一歩も出なかった。賊を鎌で斬ったご主人は、「人が死んだ
のだから責任は取る」と語っていたそうだ。しかし警察の取り調べを受けただけでお構い
なしになった様子で、そのあともその家で普段と同じような暮らしをしていた。


わたしがこの村に住み始めてしばらくしてから、地元の様子を見るために隣接する別の部
落まで散歩に出た。さすがにバリだから外来者には愛想のよいひとが少なくなかったが、
部落の中ほどまで来たとき中年の屈強な体つきの獰猛そうな男が行く手をさえぎった。

「お前はだれだ。ここの誰に会いに来たのか?」と誰何しながらズボンの腹に斜めに差し
てあった鎌をそのままの位置で直立させ、刃をわたしに向けたから、どういうわけか、わ
たしの脳裏に「鎌首を立てる」という日本語が浮かびあがった。「もたげる」でなくて
「立てる」だ。しかし呑気に構えていられる状況ではない。

早々に来た道を引き返したから、その男に攻撃されることは避けられた。いくら農具とし
ての鎌であるとはいえ、バリ人は鎌を武器のひとつと認識している。

バリ人の鎌について調べたところ、ジャワで一般に使われている鎌とはクオリティが違っ
ていることが判った。バリ人の鎌は素材に鉄道線路や自動車のコイルバネを鋳溶かした鋼
が使われていて、鉄で作られている他地方の鎌とは耐久性や強度において優っている。バ
リ人の鎌は刀身の全体が白くて薄い。他地方の鎌は刀身が黒くて刃先の部分だけが白いこ
とが素材の違いを、そして性能の差を示しているのだそうだ。バリ人の鎌を決して甘く見
てはいけない。[ 完 ]