「スマラン5日間戦闘(12)」(2023年07月26日)

少将はジャワ方面軍最高指揮官の許可なくして自分が決めることはできないと言い、ジャ
カルタの最高指揮官に連絡を取った。少将宛に戻って来た指示は、インドネシア人への武
器譲渡は厳禁すると述べていた。そのために必要であれば、武力を用いてもかまわない。
4時間の会見で得られたのはただそれだけだった。ウォンソヌゴロ知事は悄然とした様子
でマグランを去った。


10月13日、城戸少佐はスマラン政庁に対して、日本軍はインドネシア側に武器譲渡を
一切しないと言明した。市中の雰囲気が急速に悪化し、おぞましい噂が乱れ飛んだ。

AMRIがジョンブラン集会所で大会議を開き、すべての日本人とオランダを支援する者
をジュルナタン監獄とブル監獄に投獄する決議を採択した。

翌14日は日曜日だった。市中の随所に若者たちが三々五々集まっている姿が見られた。
そしてそれぞれのグループが無統制に独自の動きを始めた。スマラン=マグラン間の電話
線が切断された。チャンディ地区の日本軍将校宿舎が占拠された。日本人が捕らえられて
監獄に連れて行かれた。捕虜や敵国人抑留者として日本軍政期間中収容所生活を送り、解
放されて出てきたばかりのオランダ人や他の西洋人も日本人と同じように扱われた。


終戦処理が終わるまで現地の治安維持を連合国に命じられていた日本軍の現地指揮官であ
る城戸少佐は、スマラン市中で始まった治安の乱れに対する統制行動を執らねばならない
義務を感じたはずだ。市中を軍事占領して市民生活を軍の統制下に置くことを少佐は計画
した。計画を行動に移す前に上官である中村少将の承認を得ようとしたが、マグランとの
電話線が不通になっている。

夕方になって、その日朝にマグランの中部防衛隊司令部が地元青年団に襲撃され、中村少
将もインドネシア側に捕らえられたという情報が得られた。少佐は出撃を決意した。

10月14日22時30分、城戸部隊は出撃準備を終えた。出撃開始は10月15日午前
3時半と決まった。


時間は戻って10月14日18時、シランダ地区の上水貯水池を警備していた8人の警察
員が日本軍パトロール隊に武装解除された。そのころスマラン住民の間で、日本人が上水
池に毒を入れたという噂が広がっていた。住民の家庭に送られている水が使えない。社会
不安が高まった。

プルサラ病院の講堂で集会を開いている青年層から毒の噂を聞いた病院のラボ室長が、夜
にもかかわらず事の真相を明らかにしようとして、自動車で貯水池に向かった。水を持ち
帰ってラボで検査するつもりだったのだ。ところが貯水池に達する前に路上で日本兵に停
止を命じられ、そのときの状況がどうだったのかはよく分からないがラボ室長は撃たれて
死んだ。


その現場からあまり遠くない場所に建てられていた航海学校の寮に日本人およそ4百人が
10月12日から収容されていた。かれらはソロモン諸島から引き上げてきた兵隊で、1
0月12日にチュピリン製鉄工場に集められ、そのあと日本への送還を待つためにその寮
で生活することになっていた。この集団のリーダーは14日にスマラン知事に面会し、ま
たジャティガレを訪れて城戸少佐と会っている。この集団が夜になってから荒れ始めたの
だ。与えられた夕食をあたり一面に投げ散らかし、叫び声をあげ、足を踏み鳴らして暴れ
た。どうやら城戸少佐からスマランの最新状況についての説明を聞いたらしい。インドネ
シア人はすべての日本人を監獄に入れているという情報が4百人に伝わったために、その
抗議行動になったのではないだろうか。

22時ごろ、かれらを監獄に運ぶためのトラックが警察と青年たちに伴われて寮にやって
きた。そのとき、日本人はそんなことが起こるとは露知らずにみんな寝ていた。インドネ
シア側の指揮官が日本人を起こさせて外に整列させ、今から監獄に移すという説明をした
直後、日本人が一斉にインドネシア人に襲いかかった。[ 続く ]