「スマラン5日間戦闘(13)」(2023年07月27日)

インドネシア人が何をしにやってきたのかは、起こされたときに既に予知していたのだろ
う。4百人は棒切れやベッドの鉄材などを隠し持って、闘争意欲満々の状態で整列したの
だ。そして口々に「Bakero, Indonesia!」と叫びながら一斉に凶器を振るって暴れたそう
だ。

あちこちでインドネシア人が地面に倒れた。警察員が発砲し、日本人も地面に倒れた。現
場はすさまじい混乱に見舞われ、収拾がつかないまま、大勢の日本人が日本軍のいる場所
をめざして逃走するのを許してしまった。闘争意欲満々たる4百人を数十人で御せると思
ったところに甘さがあったのだろう。

逃走した者たちはジャティガレの城戸部隊本営やチャンディバルの憲兵隊本部を目指した
が、地理に暗いスマランの街中で、おまけに夜でもあったために大勢が道に迷い、急を聞
いて駆けつけてきた青年たちにあちこちで捕らえられた。

それらの事件は10月15日にスマラン市中で始まった殺戮の一大事変の序章にすぎなか
った。血が血を呼ぶ殺戮の大事変はその後5日間にわたって継続したのである。


その時期、ジャティガレの軍営には日本軍二個大隊がいた。常駐の城戸部隊は将校下士官
112名、兵員653名で、兵員は正規兵と兵補を含んでいた。もうひとつはたまたま暫
定的にそこに駐屯していた八木部隊で、終戦によって南太平洋戦線からジャワ島に移動し
てきた部隊であり、675人の戦力を持っていた。八木部隊は日本に送還されるためにジ
ャカルタに向かっていたがロジスティックの問題でスマランに足止めされていたのだ。

城戸部隊が立てたスマラン市中鎮圧作戦計画は次のような内容になっていた。
1.八木部隊の三個中隊およそ4百人が八木少佐の指揮下に左攻撃隊としてチャンディバ
ル地区からボジョンを目指す。
2.城戸部隊の二個中隊およそ3百人が佐藤大尉の指揮下に右攻撃隊としてチャンディラ
マ地区からジョンブラン、グランド映画館、そして第一地区警察署を目指す。


午前3時半に軍営を出たふたつの部隊は途中でチャンディバル方面とチャンディラマ方面
に別れて進撃した。右攻撃隊はジョンブランとジャンコンの国民保安軍本部と警察本部を
陥落させ、さらにその先のハルマヘイラ抑留者キャンプに進んだ。

国民保安軍も応戦し、ウィダルジョ部隊がレンポンサリに拠って右攻撃隊に小さくない打
撃を与えたものの、健闘続かず最終的に降伏せざるをえなくなって捕虜になった。捕虜に
なった国民保安軍兵は虐待されて全滅したとされている。

左攻撃隊はチャンディバル地区で国民保安軍分営と警察分署を攻撃し、プルサラ病院を経
て憲兵隊本部を奪還し、さらに解放抑留者本部になっているバターフ石油会社ビルを占領
してから国民保安軍本部に達した。解放抑留者本部は14日朝にインドネシア青年団に占
拠されていたのだ。


城戸部隊のこの動きは完全にインドネシア側の虚を衝いた。たいした抵抗を受けることな
く出撃部隊は各所で圧勝し、制圧地区を確保した。インドネシア側に名前だけは軍でもプ
ロの戦闘部隊は存在せず、武装が大違いなら軍隊操典も行き届いていない烏合の衆(TK
R・警察・補助警察員・AMRI・青年市民ら)にとっては、奇襲でなくても互角の立ち
合いなど全く無理な話だっただろう。組織・武器弾薬・軍隊統制・戦闘経験・指揮・通信
連絡などあらゆる面で大人と子供の相撲くらいの違いがあった。

多少ともそれらしい動きを見せたのは国民保安軍で、元ペタの小団長が率いる諸部隊が戦
闘らしい戦闘を行った。とは言っても部下の兵隊たちがペタ時代のままであったはずがな
く、集団行動の采配に付いてこれる部下のほうが少なかったのではないだろうか。結局か
れらは肉弾でぶつかって行って倒れるしかなかった。この日、スマランTKRは多数のペ
タ小団長経験者を失った。[ 続く ]