「スマラン5日間戦闘(14)」(2023年07月28日)

スマラン近辺の別の町のTKRが事態を知って援軍を送ったが、攻撃されているスマラン
TKRとの連絡がうまく取れず、統制のない散発的な小規模戦闘があっただけで、戦局に
はまったく影響を及ぼさなかった。城戸部隊の進撃に歯向かったスマランのインドネシア
人はすべて、日本製のこの戦争マシーンに押しつぶされ、降伏して捕らえられた者も情け
容赦なく処分された。


10月15日に行われた城戸部隊の奇襲攻撃が大勢のインドネシア人青年層を憤慨させ、
復讐せずにはいられない者たちが行動を起こした。同一民族というだけの理由でかれらは
ブル監獄に投獄された抵抗できない状態になっている日本人に憎しみの矛先を向けたのだ。
15日の夜、ブル監獄の床は人間の血の洪水になった。

10月16日、八木部隊がオテルデュパヴィリオンとタワン鉄道駅を攻撃して昼前に占拠
した。ウォンソヌゴロ知事邸も襲撃されて知事と家族が捕らえられ、城戸部隊司令部に連
行された。城戸部隊も占領地区を拡大し、インドネシア側戦闘部隊が拠点にしていた商業
学校を攻略し、ムラテン監獄を攻めて投獄されていた日本人を解放し、ホテルサムドラの
AMRI本部を奪取した。

両部隊はさらにインドネシア側の戦力集結地区になっているエリアに攻勢をかけることも
忘れず、機関銃弾を撃ち込み、家屋を焼き、男の住民を捕らえ、発見されたありとあらゆ
る武器を没収した。

その日夕方、憲兵隊特別任務班が調査のためにブル監獄に入って、血の海の中に横たわっ
ているおよそ150人の日本人の死体を発見した。その報告が城戸部隊司令部に入ると、
ウォンソヌゴロ知事に現場を見せることになり、知事がブル監獄に連れて来られた。
ブル監獄に入れられたもう80人ほどの日本人の姿がどこにもなく、インドネシア人青年
たちにどこかへ連れ去られたと思われるため、その身柄の安全を確保するよう日本軍は知
事に要請した。

このブル監獄でのプロセスの中で、同胞の死体と血の海を見た日本軍人のひとりが感情に
われを忘れて知事を殺そうとしたが、軍政期間中に日本軍とインドネシア側との連絡係を
務めていた憲兵隊軍曹に制止されて不祥事の発生が防がれている。


スマランで発生したこの事件を終わらせるためにインドネシア共和国大統領が日本陸軍第
16軍司令官に停戦を要請して合意に達し、10月17日14時をもって停戦するよう双
方がスマランに対してその指令を出した。日本側は城戸部隊に停戦指令が伝わったが、イ
ンドネシア側はTKRの命令系統に属していない無統制武装グループがたくさんあって大
統領の停戦命令が徹底せず、そのために城戸部隊も停戦することができずにずるずると交
戦が継続した。

だが城戸部隊は攻勢を手控えるどころか、その後もさらにジャティガレとゴンベルで抵抗
しているTKRを全滅させ、カリバンテン飛行場をも制圧したのである。プルサラ病院の
日本人医師ひとりが行方不明になったため、インドネシア人医師全員と関係者を捕らえて
城戸部隊司令部に送り込んでもいる。そんな行動を見るかぎり、城戸部隊は停戦の指令に
服さず、停戦する意志すら持っていなかったとインドネシア側に非難されてもしかたない
ように思われる。

17日のジャカルタの動きにもかかわらず、スマランの状況に変化は起こらなかった。事
態を重視したジャカルタの両者は18日にスマランに出向いた。インドネシア側は大統領
が派遣した5人の閣僚と要職者、日本側はジャワ島日本軍司令官と参謀たちだった。
[ 続く ]