「perihとhati(前)」(2023年07月27日)

ライター: 音楽家、スカ・ハルジャナ
ソース: 2006年9月3日付けコンパス紙 "Prihatin" 

prih-atiまたはperih ati。語源的にふたつの形態を持っているこの言葉は元々、たいへん
深い意味を表わしていた。prih/perihはpedih(ヒリヒリする痛み)を意味する。atiはhati
のことだ。pedih hatiは竹のナイフで皮を裂かれるようなものだ。裂かれるのは普通の肉
や骨でなくてhatiなのである。hatiが鋭く削られた竹で裂かれるのだ。それはヒリヒリと
痛む。金属製ナイフをまだ知らなかった昔のひとは、肉を裂くのに薄い竹片の表と裏を削
り、現代の台所包丁の刃のようにして使った。1940年代まで、田舎の村々や内陸奥地
ではドゥクンが竹ナイフで子供たちに割礼を行うのが普通だった。そんな竹ナイフでhati
を裂かれたらどれほど痛いか想像に余りある。prih-atiという表現が金属ナイフを知らな
いずっと昔に作られたことは疑いないと思われる。

後にprihatinという形に変身したprih-atiは、不愉快なできごとや体験、あるいは避けら
れない苦難に対するヒリつくようなとても深い精神的痛みを表明するための表現として作
られた。死・生き別れ・離縁・失敗・災害・疫病・紛争・戦争などがke-prih-ati-nanの
原因になった。


Prihatin! その言葉がきわめて深刻で底深い心理を象徴的に表明するものになった。そ
の言葉は適切でふさわしい場面においてのみ語られた。言い換えるなら、その言葉は日常
生活の中で誰もが頻繁に使うようなものでなかったということだ。その種の心理状態を述
べる際に日常的に使われたのは、sedih, sakit, susah, kecewa, marahそしてbingungな
どであり、prihatinに達する前段階としてそれらの言葉が述べられていたのである。

プリハティンが個人のきわめてパーソナルな感情の表現媒体になっていたからかもしれな
い。たとえ貧しくても、現在ほどたくさんの要求や衝突のない、比較的穏やかな時代だっ
たからかもしれない。はっきりしているのはプリハティンの語が、権力や特定集団の利益
を代表する声明や宣言のために頻繁に使われるような、政治的な汚染にまだ犯されていな
いということだ。とはいえ政治的な場面で、個人の感情から離れ、不適切な対象に向けら
れる使われ方が昨今はしばしば起こっており、その語の実質的効果が感じられないまま空
虚な響きをもたらすことも稀でない。


多くの犠牲者を生む自然災害やヒューマニズムの災厄に際しては、解りやすく目に見える
緊急救済措置が必要とされる。待ちの姿勢や先延ばしはいけない。プリハティンの表明は
ただの慰めのエンパシーを示しているだけで、救済にはならない。

世界を操る諸大国の共同謀議がしかけた策謀の網の目から逃れようとしているイランはプ
リハティンのエンパシー表明を必要としているのではない。イランが必要としているのは、
必殺のニューインペリアリズムがからみつかせたタコの足をふりほどくための目に見える
支援なのである。イラク・パレスチナ・レバノンについても同じことが言える。プリハテ
ィンの表明はかれらに無用のものだ。世界の支配者たちが画策している永続支配に向けた
終わりのない抑圧に直面する状態にかれらは陥っている。かれら自身がプリハティンをと
っくの昔に通り超えてしまった。拡張主義者たちが異民族支配の拡大を目指して展開して
いる侵略からの解放を実現させるための目に見える支援がかれらにとって必要なものなの
である。[ 続く ]