「スマラン5日間戦闘(15)」(2023年07月31日)

翌10月18日もスマラン市中では散発的な戦闘が行われたが、日本軍の市中出撃部隊は
攻勢を手控えたようだ。多分、停戦指令を実行させるためにジャカルタからやってきたひ
とびとがスマランの双方の責任者を交えて終戦のための協議を行ったためだろう。ところ
がその協議の中で日本側がインドネシア側に対し、スマランの武装機構が持っているすべ
ての武器を提出するように要求したのである。協議は暗礁に乗り上げた。

そんな要求に従えば、戻って来たNICA軍のインドネシア共和国撲滅を傍観する野次馬
にしかなれないではないか。あれほど独立させるとおだてておきながら、敗戦したとたん
に日本軍はオランダ植民地主義者の走狗になって、今やインドネシア共和国を滅ぼす側に
回ってしまったのか。


ジャワ島を統治して来た日本軍政は、敗戦の結果統治権を失った。連合国の第二次大戦に
おける東南アジアの政治方針は旧態復帰であり、日本軍の侵攻前に行われていた連合国の
植民地体制に戻すことが目標だった。日本が連合国に降伏すると連合国は日本に対して、
占領していた各国の状況を凍結して治安を維持し、新しい政治的な既成事実を一切作らず
作らせず、復帰する植民地の宗主国に政権を返してその地を去るように命じた。

占領期間中に独立を与える約束をし、その準備をインドネシア人に行わせ、国防のための
軍事組織を作って教育訓練していたすべての努力が敗戦によって崩れ落ちたのである。し
かし多くのインドネシア人も日本人も、敗戦するまで行ってきたその努力の延長線上にわ
が身を載せていた。独立を希求するインドネシア人にとってはそれが当然の姿勢だっただ
ろう。混乱したのはむしろ日本人の方だったのかもしれない。


インドネシア共和国独立宣言を皮きりにして、インドネシア人の建国の動きが進み始めた。
その中に見られた、行政機構や実業界を握ることに併せて、国防機構を武装させるための
軍用武器兵器の日本軍からの入手などが比較的穏やかに進展して行ったことが、ジャワ島
統治日本軍上層部の心情にトゲを刺したにちがいあるまい。それを放置することは戦勝国
の命令に対する違反なのだから。

1945年9月10日、ジャワ軍政幹部はインドネシア側に対して声明を発表した。「イ
ンドネシアの国家行政はインドネシアに譲渡せず、連合国に引き渡す。」

その声明をインドネシア共和国政府に対する日本軍の宣戦布告と受け取ったインドネシア
人も少なくなかったのではあるまいか。9月末から10月初旬にかけて、スラバヤの日本
軍東部ジャワ地区司令部、ヨグヤカルタの地区司令部に対するインドネシア側の武力攻撃
が開始され、スラバヤは10月2日、ヨグヤは10月7日に日本軍がインドネシア人攻撃
部隊に降伏している。


スマランでの10月18日の協議は合意に至らないまま解散した。そのとき日本側は、1
0月19日午前10時にインドネシア側の武器提出を開始せよ。応じない場合はスマラン
を爆撃するとの最後通牒を発した。

一方その日は、スマラン周辺の町々に置かれているTKRの戦闘部隊が城戸部隊と対決す
るべく続々とスマランの町に流れ込んできていた。19日にもっと大規模な形で戦闘が再
開されるのは火を見るよりも明らかな情勢になっていた。


ウォンソヌゴロ知事は憂鬱な気分で19日の朝を迎えた。また大勢の若者たちの血が流さ
れることになる。ところがかれの目を見張らせる急報が届いたのだ。午前7時45分にイ
ギリス海軍歩兵揚陸艦グレンロイがスマラン港に入港し、第23インド師団第49インド
歩兵旅団所属の第10グルカ旅団第3大隊が上陸中であるという知らせだ。知事はこのA
FNEI派遣軍の指揮官からの連絡を待った。

上陸したグルカ兵は市中に散開して交戦を止めにかかった。交戦していた者たちも、敵の
襲撃に備えていた者たちも、午前10時を期して攻勢に出る準備をしていた者たちも、完
全武装のインド人部隊がシースファイアを叫びながら現れたのに驚いて戦闘をやめた。
[ 続く ]