「スマラン5日間戦闘(16)」(2023年08月01日) 午後になって、AFNEIスマラン派遣軍指揮官エドワーズ大佐とウォンソヌゴロ知事な らびに共和国政府の大臣たちとの会談が行われ、AFNEI軍はインドネシアの内政に干 渉しないこと、インドネシア共和国政府はAFNEI軍の終戦処理に協力することが合意 された。AFNEI軍はTKRの武装を承認し、TKRと警察以外の武装集団をすべて武 装解除するようインドネシア側に求めた。AMRIは武器を持てなくなったわけだが、か れらはTKRの中に紛れ込んでTKRを自称したから、インドネシア側の戦力にはたいし た変化が起こらなかった。 10月20日、オテルデュパヴィリオンでAFNEI・インドネシア政府・日本軍の三者 会談が開かれた。これは諸外国報道陣に開放された公開会談の形式で行われた。この会談 が始まる前に市中のビルを占拠していた城戸部隊出撃隊の一部とグルカ兵部隊の撃ち合い が発生し、グルカ兵側に死者3人負傷者7人が出た。その衝突は相手の意図を誤解したた めに起こったものであるのがすぐに明らかになり、短時間のうちに処理が終わった。 会談が開始されていくつかの合意事項が次のように決まった。 ・ 戦闘行動と敵対行為を停止する ・ 日本軍は捕らえたインドネシア人を解放し、司令部兼軍営に戻って拘禁される ・ 人員不足のAFNEI軍のために、内陸部に設ける基地に日本軍が応援の人数を出す ・ 行政はインドネシア政府に委ねる。市中の治安と秩序はインドネシア警察に委ねる。 TKRは市外に撤退すること こうして、スマランの5日間戦闘が正式に終了した。その5日間に2千人のインドネシア 人が死んだ。日本人は、出撃部隊を除く軍人と民間人あわせて5百〜1千人が死亡した。 出撃部隊の死者は160人前後だった。 この事変の渦中を潜り抜けたスマランの青年たちが書き遺した体験記は、現実感あふれた 生々しい様相をわれわれに伝えてくれるものだ。中でも、ペピ・アディウォソは新鮮な記 憶を1947年に既にまとめてくれている。 10月14日朝、解放抑留者本部になっているバターフ石油会社ビルをわれわれは占拠し た。その日、われわれの一部がビルの警備に就いていたとき、銃声が聞こえた。だが夜に なっても何も起こらなかった。 10月15日、バターフ石油会社ビルで警備に就いていた竹槍武装の仲間たちの人数がだ いぶ減った。わたしは手りゅう弾を1個だけ持ってプンドリカンへ行き、プカロガンの中 等学校生徒たちと合流した。突然、手りゅう弾の爆発音が起きた。みんなは急いで電気会 社ビルの裏手に回って配置に着いた。だがそれっきりで、何も起こらない。 結局みんなサラムンさんの家に食べ物をもらいに行った。食べた後、わたしは置いてきた 手りゅう弾を取りに戻った。そして驚いた。日本軍がすでにそこを確保していたのだ。わ たしは手りゅう弾の置き場所めがけて走り、それを取って逃げた。日本兵に見られたはず だが、銃弾は飛んでこなかった。 夜になって、ブス・スワンディとふたりでドクトルスジョノの家に泊めてもらった。真夜 中にドクトルダルマスティアワンに起こされた。かれはわれわれふたりにブル監獄に行っ たほうがいいと言う。しかしわれわれは行かなかった。 10月16日朝、わたしは何をする予定もなしにプンドリカンにいた。地域の警備をして いると、特別警察を管掌している警察員ダルソノ氏がやってきて、スマラン警察本署へ車 で行こうとわたしを誘った。本署に近付いたとき、本署が日本軍に奪われているのがわか った。表にいた警備兵が車に発砲した。弾丸はラジエータに当たり、乗っていた者はすぐ に逃げて身を隠した。[ 続く ]