「スマラン5日間戦闘(17)」(2023年08月02日)

わたしはドクトルスワンディの家に向かった。そこにはSパルマン氏がいて、日本軍の攻
勢に対抗する計画を組んでいた。だがそれは結局実行されなかったようだ。そこからわた
しはマトヒルと一緒にスユディ法学士の家の向かいにある第一女子中等学校に行って指令
が来るのを待った。

ジョコ元ペタ小団長がやってきて、ドゥマッに連絡を運ぶ者を探していると言う。しかし
ドゥマッへ行くには日本軍占領地区を通り抜けなければならない。わたしもマトヒルも、
それは危険が大きすぎると感じた。しかし他の四人がその指令の遂行に応じたので、われ
われも同行することにした。6人は手りゅう弾やピストルで武装した。伝達する内容は、
停戦が行われるだろうというスマラン側上層部の判断に関する情報だ。

まず6人はタワン鉄道駅へ行った。そこは日本兵に占拠されていたので、港に向かった。
港ではいきなり銃弾を見舞われたから、全員がカンプンムラユに逃げ込んだ。しかし日本
兵が追いかけて来る。村の家はすべて表戸を閉め切って知らぬ顔を決め込んでいる。われ
われをかくまおうとする家は一軒もなかった。しかたなく6人は集落の先へ出て、養殖池
が並ぶ広い地域に走り込んで散り散りに分かれた。マトヒルだけがずっとわたしに付いて
きた。

しばらくじっとそこに隠れていたわたしとマトヒルを、養殖池の管理人が食事に誘ってく
れた。朝から飲まず食わずでいたわれわれは、飯とエビの頭だけのおかずをありがたくち
ょうだいした。

16時ごろ、われわれは任務を果たすためにそこを離れた。バンジルカナル沿いにクンダ
ル方面に向かって進み、海に出た。海には日本人の死体がたくさん漂っていた。海岸伝い
に道を探し、やっと見つけた道は養殖池地区に入って行く地点から4百メートルくらいの
位置にあった。これを見つけるためにわれわれは5時間も時間を費やしたことになる。

手りゅう弾を土中に隠してから、われわれふたりはトゥグの副ウェダナであるトリスノ・
スドモの家を訪れて伝令任務のことを話した。そして井戸でマンディしていたとき、銃声
がした。われわれはすぐに家の中に入ったが、家の中はもぬけの殻になっていた。家人は
みんな逃げ出していたのだ。

逃げたひとびとを追ってわれわれも走った。ところがジャルカに近付いたところで、地元
の青年たちに捕らえられた。かれらもトリスノ・スドモ副ウェダナを探していた。かれら
は裏切り者の副ウェダナに天誅を加えようとしていたのである。

16日午前中、副ウェダナはウォンソヌゴロ知事の指示に従ってインドネシアと日本の交
戦を停止させるべく、自動車に白旗を掲げてあちこちを走り、停戦指令を伝えた。事情を
知らない血気にはやる青年たちがそれを降伏表明と考え、副ウェダナを裏切り者と見なし
たにちがいあるまい。だからかれらはわれわれを裏切り者副ウェダナの手下だと思ったの
だろう。

かれらは竹槍の先をわれわれの首近くに当て、路上に座るように命じた。ところがかれら
のひとりがわたしのことを知っていた。かつて青年団でわたしの配下にいた者だ。われわ
れは解放された。

わたしとマトヒルはカリウグの副ウェダナの息子の家に向かった。その夜、そこで休養を
取り、10月17日の朝に用意された小舟でドゥマッに送られた。ブヤランの海岸で舟か
ら降りたわれわれは徒歩でサヨエンまで行き、ホラン・イスカンダル氏にスマランからの
連絡を伝えてドゥマッ行政府に送ってもらった。

だがスマランでは、その17日の戦闘を最後にして日本側の軍事作戦が終了した印象が強
い。局地的な銃撃戦は場所によって続けられていたものの、18日に日本軍は攻勢を控え
ていた。10月21日になってから、ブヤランからスマランへ商売に行く人々の中に紛れ
込んでわたしとマトヒルはスマランに戻った。


同じように、スマラン市中を荒れ狂った戦闘の下をインドネシア側として潜る体験をした
他のひとびとが書き綴った記憶もたくさんある。[ 続く ]