「スマラン5日間戦闘(18)」(2023年08月03日)

10月15日にスマランで行われる予定になっていた全ジャワ青年会議参加者を歓迎する
ために、14日の夜は市中に明るい賑わいが流れていた。スダルモノは友人とふたりで市
中に入って来る東側入り口の夜間警備を行った。カリガウェの橋を通過する交通とタワン
鉄道駅が重点警備スポットであり、かれらは朝までその二カ所の警備ポストを往復して監
視を行った。

15日夜明けごろ、スマランの南部で機関銃の射撃音が聞こえだした。銃声は激しさを増
しながらこちらに近付いてくる。スダルモノは何が起こったのかを調べようとして、第二
初等中学校の警備ポストに向かった。しかしその途中で会った青年たちは学校へ行くなと
かれを止めた。憲兵隊分署前の五差路で日本軍と警察の銃撃戦が行われていると言うのだ。
日本軍と対戦しているのは警察だけでなく、青年・中等学生・一般市民などが警察を助け
て日本軍に抵抗し、そして命を落とした。


日本軍がボジョンに入って来た時、ボジョン警察署の警備に就いていたのはハルヨノ、マ
トヒル、アルウィ、ブス・スワンディの四人だった。警察署への攻撃が始まると、四人は
防御陣地を応急に設けてカービン銃で抵抗した。朝に警備を交代する予定になっているス
ダルヨノとエルランガがやってきて応戦に加わったが、圧倒的な人数の日本軍に攻められ
ては持ちこたえられるはずもない。結局、全員がプンドリカンに向けて後退した。プンド
リカンでは補助警察員たちが陣地を設けて日本軍を待ち受けていた。そこにはプカロガン
の青年たちも加わっていて、6人もかれらに合流した。やってきた日本軍と交戦したが、
力尽きために陣地を捨てて撤退した。

ボジョンからプンドリカンに入る辺りで、特別警察員の制服を着た死体がたくさん置かれ
ているのを目にしたとハルヨノは書いている。有刺鉄線で複数の死体を束ねたものがいく
つもあった。おまけにそんな形で水路に投げ込まれているものが三つ、そして束ねられて
いない死体がふたつ、水に浮いていた。

ハルヨノは第二初等中学校舎に入って友人知人の死体があるかないかを調べた。プカロガ
ンのパティの息子、スダルソノの死体があった。そこで日本軍に殺されたそうだ。


日本軍がスマラン南部で出撃を開始した15日は、午前中にその情報が住民の間に知れ渡
った。若者たちは市中の通りに出ていた日本人を捕らえてブル監獄に入れた。ムハルトは
その状況に注意を向けていた。かれは書いている。

武装していた日本人は武器を取り上げられ、武器を持たない日本人にもたいてい暴力が振
るわれた。そして青年たちは捕らえた日本人をブル監獄に連れて行ってぶち込んだ。それ
が終わると、かれらはそのままブル監獄を去って行ったのだ。誰が虜囚の監視をするのか、
食事などの世話はどうするのか、監獄に入れた日本人をその先どうするのか、そんなこと
などまるで知ったことじゃないとでも言うように、かれらはただぶち込んで鍵を閉めさせ、
去って行ったのだ。

その日、日本軍は一日かけて各所を制圧し、占領地区を設けた。その一日の間に日本軍が
インドネシア人に対してどんなことをしたのかがスマラン住民の間で口伝えで知れ渡った
とき、大勢のインドネシア人が激昂した。夜になって、復讐を誓った者たちが興奮した形
相でブル監獄に続々と集まって来た。だれもが何らかの武器を携えていた。何が起きるか
は十分に推察できた。かれらにその行為をさせないようにわれわれは説得しようとしたが、
既に自己抑制のタガが外れた群衆を統御するのは無理なことだった。

翌16日の夜、スラムッ・スカルディはブル監獄周辺地区で起こったできごとを目撃して
いる。かれが周辺地区に来たころ、ブル監獄は日本軍に占拠されていた。それから、監獄
内が日本人の死体であふれているのを見た日本兵たちが周辺の住宅に剣付銃を構えて押し
入り始めたのだ。たいていの住民は既に逃げ出していたようだが、もしも家の中にインド
ネシア人がいたなら、無事には済まなかっただろう。スラムッは安全な場所に隠れてその
様子を見ていた。[ 続く ]