「塩を求めて(2)」(2023年08月02日)

西洋人がやってくる前の時代、中部ジャワのルンバン・パティ・ジュパラ・ドゥマッの海
岸線で作られる塩はその地方の支配者がヌサンタラの各地と交易するための特産物になっ
ていた。VOCがバタヴィアに本拠地を置いてから、オランダ人はジャワ島各地の富を手
に入れる動きを始めた。そのために各地の地元支配者の頭を抑えて富を差し出させる手段
が使われた。塩の場合はできあがった製品をVOCに貢納させ、また廉価に売らせるので
ある。生産面はプリブミにまかせておけばよい。

VOCから支配権を引き継いだオランダ東インド政庁は、ジャワでVOCが廉く売らせて
きた富の生産分野にまで立ち入るようになった。ファン・デン・ボシュの強制栽培制度が
その頂点であり、それが植民地政庁の一貫的な方針になっていった。塩も遅かれ早かれそ
の方針の適用対象になることが運命付けられていたのである。

VOC以前から、プリブミが生産し華人が流通を掌握する分業方式が採られていた中で、
流通を握った華人が生産分野にまで口や手を出して支配しようとすることは頻繁に行われ、
生産分野のプリブミが華人の搾取を憎む事件は数えきれないほど起こった。


VOCが華人の上前をはねる面を見せたのと対照的に、植民地政庁はプリブミを生産分野
における労働者に落として生産を握り、流通は華人に依存する傾向を示した。

概略の構図はそんな形になっていたが、VOCは支配下に置いた地方ごとにその支配関係
に応じて最大の利益を生む方針を取ったから、画一で一律的なことがなされていたわけで
もなく、そのころからVOCが生産分野に立ち入ることが行われなかったわけでもない。

搾り取るのが容易な地元支配者に対しては塩の貢納を命じ、更に塩田用地を海岸一帯で借
地させ、その地主として地元富裕階層に土地を貸し、製塩を行わせた。そのシステムによ
って塩田プロレタリアートが生み出され、また従来なかった請負人という社会機能が出現
した。そのシステムを徹底させるためにVOCは塩田の新規開拓を許可制にし、対抗する
地主が出現できないように地元支配者を使って統制した。

VOCのそんなやり方は、ダンデルス時代になりイギリス時代に変わっても旧態然として
続けられた。もちろん、オランダ東インド政庁も同じ方針を継続させた。1882年2月
25日、そんな状態に変化が起こった。政庁は塩専売規定条項を制定してそれまで行って
いた独占的生産流通を全面的な独占体制に移行させたのである。

民間業者の関与する余地を全廃したことは国民に対する塩供給の保証と保護を意味するこ
とになったものの、他面で民間の塩生産に携わろうとする意欲に冷水を浴びせる結果にも
なった。


新生インドネシア共和国政府は、オランダ東インド政庁が長い歳月をかけて作り上げた政
治経済法曹民生の構造をまず引き継いで動かすことから開始した。塩専売のために国有事
業体ガラム社が設立されて植民地体制を引き継いだ。植民地体制下に生み出されたプリブ
ミの塩田プロレタリアートの仕組みもそっくりそのまま保存されたのである。

ところがその後、いくら時間が経過しようとも、塩生産に上昇が起こらなかった。そのた
めに、儲からない塩に肩入れしようとする意欲が行政トップから生産現場に至るまで、申
し合わせたかのように現れなかった。政府に負担を強いることしかしない物産となった塩
の独占体制を政府は最終的に解除した。オランダ東インド政庁が作り上げた末端現場にお
ける生産体制の改善は何ひとつなされないままに。ディポヌゴロ大学文学部歴史学者が著
したインドネシアの食塩生産史の論説にはそんなあらすじが記されている。


中部ジャワ州ルンバン県カリオリ郡の海岸には塩田が並んでいる。その田のひとつで塩粒
を均していたムラジさん51歳が「もう一日干せば収穫だ」と言う。ムラジは30年間、
塩を作って家族を養ってきた。かれは毎朝、そこからおよそ2キロ離れた自宅から自転車
で塩田にやってくる。[ 続く ]