「スマラン5日間戦闘(19)」(2023年08月04日)

補助警察員になっていたジャッミコは10月15日19時ごろ、任務に就くために二人の
仲間と一緒にボジョンの補助警察本部に向かった。ところがムリチャン=ジョンブラン=
タナプティの三差路に来た時、ジョンブラン警察署の隊員たちに止められた。ジョンブラ
ンで戦闘が行われているので、ジョンブランに近付いてはいけないという説明だ。

三人は武器を持っていなかったので家に引き返した。そしてムリチャン地区の元警防団員
に呼集をかけた。およそ3個小隊ほどの人数が集まった。三人はそれぞれが一個小隊を率
いて地区の警備を開始した。中でもムリチャン=ソンポッ三差路は関心の焦点に置かれ、
その夜は朝まで竹槍やクレワンを持った青年たちが警備を行った。

10月16日夜明けごろになって、南側の丘陵部に陣取った日本軍が銃撃をかけてきた。
日本軍戦闘部隊が出撃して来たためにスマランの東や南にある村落部の住民の足がムリチ
ャンで止められ、インドネシア人民衆がたくさんそこに溜まっていた。かれらは農産物を
市中の市場に売りに行くために市内にやってきたひとびとだった。

銃弾が飛んで来たことで一帯は狂乱におちいった。地区の警備をしていた青年たちがその
ひとびとをおよそ5百メートル離れたムリチャン橋地区に避難させることに努力した。民
衆の中に銃弾を受けて倒れた者が何人も出たが、安全な場所に移されなければ被害はずっ
と大きなものになっていたにちがいあるまい。


ウィリー・ハディスマルトはプンドリカンで日本軍に捕らえられてブル監獄に拘留された。
そして19日に他のインドネシア人虜囚と一緒にバンジルカナルに連れて行かれた。そこ
で断頭処刑が行われるのだ。

断頭処刑が開始される前に、AFNEI軍がスマランに上陸したニュースが処刑班に伝わ
ったため、日本軍は処刑を中止した。最終的にウィリーは解放されて無事に帰宅すること
ができた。

日本軍が捕らえたインドネシア人の中には、陸輸総局の地下倉庫に拘留された者も少なく
ない。陸輸総局はオランダ時代のNIS(東インド鉄道会社)事務管理本部だった建物で
あり、今はLawang Sewuという名で観光スポットになっている。

虜囚には飲食物が何も与えられなかったために、かれらは自分の小便を飲んで露命をつな
いだそうだ。だが長く拘留された者の中にかなりの死者が出た。20日の三者協議の決定
事項に従って、生き残っていた者は解放された。


スマランの5日間戦闘はインドネシア人がはじめて実体験を持った本格的な現代戦争であ
り、このあとやってくるNICA軍との民族独立を賭けた戦いのための貴重な学習をイン
ドネシア共和国軍事機構に与えるものになった。しかもその下をくぐって生き延びた青年
たちに、戦争というものの残虐さと醜さをいやと言うほど見せつけたのである。

人間を虐待しまた殺すためのありとあらゆる方法が日本軍によって示された。銃殺、剣付
銃での刺殺や竹槍を使ってのもの、日本刀での斬殺や断頭、自動車でひき殺し、あるいは
生きたまま焼き殺す。道路・水路・窪地・住居・・数限りない場所に死体が転がった。特
別警察隊員の死体が5人ずつ有刺鉄線で括られていた。

日本軍の軍事行動が開始されて二日目にブル監獄での虐殺が判明してから、日本軍のイン
ドネシア人に対する残虐行為はレベルアップした。かれらは同じ民族の人間が虫けらのよ
うに殺されたことに我慢できなかったのだろう。大日本帝国陸軍の傲岸さがそれによって
高みに押し上げられたにちがいない。

かれらが出撃をしていなければブル監獄の大量虐殺は起こらなかった可能性が高いという
ことをかれら自身が考えようともしなかったように見える、とこのストーリーは語ってい
る。圧倒的に有利な条件で戦闘行動を開始した城戸部隊には、まるでスマランにあるイン
ドネシア共和国の軍事機構を潰滅させることを目的にしていたかのような印象があった。
何のために?[ 続く ]