「スマラン5日間戦闘(終)」(2023年08月07日)

終戦処理を遂行する任務を携えてジャワ島に進駐して来たAFNEI軍は連合国軍とは名
ばかりの、屋台骨のすみずみまでをイギリス軍が担う軍隊だった。そこにオランダ人が混
じって植民地を旧態復帰させようとしたためにインドネシア人との紛争が始まった。

スカルノ大統領はAFNEI軍の終戦処理任務を受け入れて協力を約束しているが、現場
ではオランダ人とインドネシア人の戦いが起こっていて、オランダ人を抱えているAFN
EIをインドネシア人一般は同じ穴の狢だと見ている。既にジャカルタとバンドンで何が
起こっているかを見れば一目瞭然だ。オランダ人でないAFNEI兵士にもたくさん被害
が出ているのである。中部ジャワに進駐するAFNEI軍部隊指揮官はうまい手がないも
のかと考えたにちがいあるまい。

中でも重要項目のひとつとして、AFNEI中部ジャワ進駐軍はまったく人手不足である
という大きい弱点を持っていた。それは日本軍の手を借りてしのげばよい。そのために、
日本人を怒らせたり不愉快にさせてはならないという方針が中部ジャワ進駐軍の内部でさ
さやかれたという話もある。

かれらは城戸少佐に頼った。スマランに進駐軍と解放抑留者およそ3千人の宿舎と食糧を
確保し、また送還される日本人の宿舎と食糧をスマランの外に確保してほしいという要請
を城戸少佐はなし遂げ、食糧も日本軍の食糧倉庫を開いてAFNEI側に提供した。

マグランやバニュビルなど中部ジャワ内陸部におけるAFNEIの活動に城戸部隊は協力
を惜しまなかった。中部ジャワに他の日本軍部隊がまったくいなかったわけではないとい
うのに、内陸部においてさえ、AFNEI軍を手伝った日本軍は城戸部隊だけだった。中
部ジャワの他地区にいた日本軍の中で、AFNEI軍の活動を手伝うために出てきた部隊
はひとつもなかった。


スマラン港に上陸して市中に戦闘態勢で入って来たAFNEI軍に向けて地元のインドネ
シア人が銃火の歓迎を行う可能性があったことは否定しきれないと思われる。しかし実際
にAFNEI軍がスマランに上陸しはじめたとき、城戸部隊が行った軍事行動によってイ
ンドネシア側のその能力は粉砕されてしまっていた。

現実にAFNEI軍のスマラン進駐は平穏無事に進展し、進駐軍はスマランをあっさりと
掌握してから中部ジャワ内陸部に進出した。マグランに基地を設けてヨグヤカルタとソロ
をうかがったことがインドネシア側の危機感をあおり、アンバラワの会戦に向かって進ん
で行くことになる。


いかなる状況であっても、他人に恩を与えるのが善行であることは間違いあるまい。まし
てや勝者が敗軍の将から恩義を受ければ、勝者が敗者に向ける取扱いの厳しさがやわらぐ
可能性は小さくないだろう。

AFNEI側と城戸少佐の間に密約が交わされたのかどうか、それどころかそんな協議が
あったのかなかったのかさえ、当事者たち以外にそれを断定できる者はいないだろう。肯
定する者も否定する者も、かれらが語ることのできるのは自分が知っている事実を敷衍し
た結果の論理的な帰結として得られる真相だけではあるまいか。それは通常、個人の確信
と呼ばれているものだ。歴史の事実にはそのできごとの渦中に身を置いた人間の数だけ真
相が生まれるのではなかったか?

イギリス軍が城戸部隊にたいへん助けられたという恩を感じていたことを示すできごとが
1988年ごろにイギリスで起こった。スマランに進駐したAFNEI軍の司令官べセル
准将が、イギリスの国家勲章であるDistinguished Service Orderを城戸少佐と城戸部隊
に授与する提案を出したそうだ。しかしこの提案は最終的に却下された。敵国人だった一
介のスマラン防衛軍指揮官がイギリスに与えた恩義とはいったい何だったのだろうか?

城戸部隊が起こした軍事行動の動機が何であったにせよ、インドネシア共和国の国家防衛
を担うようになるスマランの青年たちは、その5日間に城戸部隊と八木部隊がインドネシ
ア人に対して行った残虐行為をたっぷりと目のあたりにした。ジャワ島にやってきたとき
には年長の兄弟だと言っていた日本人が弟分にそれをしたことになる。

日本人に対する嫌悪と憎悪が沸騰し、自分たちの手で独立を勝ち取る以外にインドネシア
人がインドネシア人として存在する方法のないことがかれらの腹の底に刻み込まれたにち
がいあるまい。それはきっとかれらにとっての、実に得難い反面教師になったようにわた
しには思われるのである。[ 完 ]