「奴隷から王に(1)」(2023年08月08日)

1887年、Van Slaaf Tot Vorstと題するオランダ語の小説が発表された。著者は18
53年にスマランで生まれたオランダ女性ニコリナ・マリア・クリスティナ・スロートで
あり、この小説にはジャワのジャスミンMelati van Javaという筆名が使われた。かの女
は18年間スマランで娘時代を過ごし、その後オランダ東インドに関する文筆活動を開始
して世間に名前の知られた人物だ。

この作品はジャーナリストのFHヴィガースによってDari Boedak Sampe Djadi Radjaと
いうタイトルでムラユ語に翻訳され、1898年に出版されている。ヴィガースはヨーロ
ッパ系の東インドプラナカンであり、オランダ東インドの文学を世の中から掘り起こす先
駆者として活躍した人物だ。

FHヴィガースは1906年に発足した初期の東インドジャーナリストの職業団体である
マレイシュジュルナリステンボンドの副会長を務めたジャーナリスト界の大物だ。ジャー
ナリストに転身する前は東インド政庁の官僚として監視官の職務に就いていた。


ヴィガースが使ったムラユ語はbahasa Melayu Rendahと呼ばれている、非ムラユ文化地方
で一般に使われているムラユ語だった。オランダ人が正統言語と規定し、東インドの共通
語にするために文法や語法をアカデミックに編成し直したムラユ語はリアウ地方のムラユ
語であり、こちらはbahasa Melayu Tinggiと呼ばれた。

しかしジャワ島の都市部でひとびとが日常接しているムラユ語は低ムラユ語なのであり、
かれらが読み書きし、また感情や言語感覚を盛り込んで使うためにはその方が使いやすく、
そして解りやすかった。19世紀末近くになって華人が盛んに文筆活動を行うようになっ
たとき、かれらはたいていが慣れ親しんだ低ムラユ語を使って作品をものしたから、世の
中には、少なくともジャワ島内では、低ムラユ語が高ムラユ語を押しのけて圧倒的にポピ
ュラーな実用言語になった。

そのころまで華人が書く作品は、華人向けの中国語、あるいは西洋人とプリブミ知識層向
けのオランダ語で書かれるものがほとんどだったにもかかわらず、かれらは一転して低ム
ラユ語でプリブミ中間層にまで行き渡る作品を書くようになっていったのである。


高低ムラユ語間の軋轢がなかったわけでは決してない。高ムラユ語は行政統治者が肩入れ
する政策言語なのだ。低ムラユ語はアカデミックなクオリティに欠ける野卑な言語である
というコメントが教育文化行政筋から出されることはしばしば起こった。それは同時に、
作品のクオリティに対する評価の中にも混じり込んだ。この作品のクオリティは野卑なも
のだという批評をオーソリティが表明したなら、読む気をなくす読者も出るにちがいある
まい。

このヴィガースの翻訳作品の流通期間が比較的短かったのはそのせいではないかという現
代文学界のコメントがある。その時代の文芸批評は純粋に文学的な内容だけに焦点が当て
られたものでなく、このような使用言語のバリエーションに対する政策的な意向が入り混
じった複雑な性質を持っていたと言うことができるだろう。

だが最終的に社会は、低ムラユ語という術語をbahasa Melayu Pasarという受け入れやす
い名称に替え、アカデミック性よりもポピュラー性を支持して統治者の政策を瓦解させた
のである。インドネシア語という言語の歴史的な流れを見る場合、青年の誓いを経て新し
い民族の国語が作り上げられていくプロセスの根底に置かれていたのはこのパサルムラユ
語であり、リアウ地方の純粋ムラユ語あるいは高ムラユ語ではなかったと考えるほうが当
たっているのではないだろうか。


ニコリナ・スロートのその小説は史実を踏まえた創作というよくあるタイプの歴史小説だ
ったようだ。その主人公がウントゥン・スロパティである。17世紀後半から18世紀初
期の時代に生きたウントゥン・スロパティは、奴隷から身を起こして地方に独立国を打ち
建て、王になった。[ 続く ]