「塩を求めて(5)」(2023年08月07日)

サウ海はかつて、マラッカ海峡やマカッサルに比肩するほどの賑わいを示した時期がある。
クパンやエンデの港が栄えて、ポルトガル・中国・オランダ・イギリス・米国などの商船
が19世紀から20世紀初期ごろにかけて、繁く往来した。かれらは香木のビャクダンや
馬を求めてやってきたのだ。

ヨーロッパから最初にアジアに進出して来たポルトガル人はスパイスを求めてマルク諸島
に至り、16世紀にインド〜マラッカからジャワを経由してマルクに至る幹線航路が作ら
れ、ポルトガルは東ヌサトゥンガラの海岸部を支配下に置くことに努めた。サウ海がその
航路の要衝になった。

次の世紀に後追いのオランダ人がやってきてポルトガルの権益を奪いはじめ、最終的にテ
ィモール島東半分を残してそれ以外の地域にポルトガルが打ち立てた支配権をすべて奪い
取ってしまう。東ティモールにオランダが手を付けなかったのは、その地から得られるも
のが支配するためのコストに見合わないというのが理由だったそうだ。

1660年以降、エンデの港はたいそう繁栄した。しかしその後、18世紀を通してサウ
海がポルトガルとオランダの戦場になったため、通商を求めてやってくる諸国の船舶が激
減し、通商の賑わいが姿を消して硝煙漂う海に姿を変えた。オランダがサウ海の制海権を
確保してエンデの通商を再開させたのが1839年で、サウ海は再び往時の賑わいを取り
戻した。そのころが、諸外国の商船がエンデに集まる最盛期だった。しかし1929年の
世界不況がエンデの賑わいを消し去ったのである。


総面積460.5キロ平米のサブ島には海抜7百メートルを超える山もなく、背の高い木
々はロンタルやビダラばかりでジャングルなどなく、乾燥した地面を草原とむき出しの土
が覆っているばかりだ。その過酷な気候がもたらす自然のせいで産業と呼べるようなもの
がない。島のどこへ行こうが暑く乾燥したサバンナ気候になっていて、しかも四六時中強
い風が島を吹き抜けていく。

この島では何をしてもうまくいかない、と島民は昔から考えてきた。ここの気候は農業を
受け付けない。ところが、この気候は塩づくりにうってつけではないか、と考える人間が
現れた。神は塩づくりに最適な条件をこの島に与えていたのだ。その神の恵みを放置して
どうする?


サブライジュア県庁は2012年に塩田実験プロジェクトを開始した。1Haの塩田を設け
てトライしたところ、一週間で10トンの生産があがった。しかも国産塩の中で最高級と
いう折り紙付きで。普通の気象条件の時期には10日間で収穫が可能になった。乾季の最
適気象条件下であれば6〜7日で収穫できる。こうして県庁は製塩を県の育成産業にする
方針を固めた。

2015年には塩田が121Haに広がり、121の生産者グループが作られ、1,210
人の島民が塩づくりにいそしんでいる。1,210人には毎月130万ルピアの報酬が与
えられ、そのうちの10万ルピアが老齢保障のための強制積立金として銀行に預けられる
ために実質手取りは120万ルピアになっている。

製塩方法は、まず貯水池に海水を120℃に加熱しながら流し込む第一洗浄プロセス、次
に180℃に加熱する第二洗浄プロセス、第三洗浄プロセスは22℃で、最後に25℃の
プロセスを経て太陽熱で最終乾燥させ、塩を収穫する。プロセスが長くなりすぎると苦い
塩になり、使えなくなる。


人口およそ8万人のサブ島では、何の産業もないためにおとなになると島を出て出稼ぎ者
になるのが島民の宿命になっていた。従来から島民はエンデ、ロテンダオ、クパンなどに
出て働いてきた。製塩産業のおかげで故郷で生活し続けることが可能になるため、多くの
島民が県庁の方針をおおいに歓迎している。

県庁は製塩作業者の採用条件を小学校卒または同程度としているだけだから、たいていの
島民にとってその条件を満たすのは難しくない。働く気があるかないかの問題になってく
る。県庁はサブ島に5千Haの塩田が可能だと見ており、1Ha当たり10人の雇用能力とす
れば5万人の労働力需要が潜在していることになる。[ 続く ]