「ブブキンはやっつけること」(2023年08月11日)

ライター: 文司、デポッ在住、アヤトロハエディ
ソース: 2005年2月19日付けコンパス紙 "Bubukin, Mujair, Mukibat" 

サッカー史の中でインドネシアが黄金の色に輝いたことがある。名前がまだオランダ東イ
ンドだった1938年にわれらのイレブンはワールドカップで奮闘し、その栄誉を獲得し
たのだ。独立したあと、われらのイレブンは1956年にオーストラリアのメルボルンで
開かれたオリンピック大会でも奮闘した。強豪のひとつソ連を相手にして一歩も引かず、
0‐0で引き分けた。そして再試合となり、最終的に4‐0でインドネシアは降参した。

そのときのソ連チームにブブキンという名の強力なストライカーがいて、インドネシアの
ゴールを奪った。インドネシア人になじみやすく言いやすい言葉だったから、オリンピッ
ク祭典後の何年間もその名はlibasやhancurkanの同義語として使われた。

偶然にも、インドネシア語のbubukは粉末や粉砕されたものを意味しており、それにブタ
ウィ語接尾辞と考えられている-in(本当はバリ語なのだが)を付けるとその選手の名前
になる。その結果、サッカーだけでなく何かのスポーツ試合が行われてどちらかのチーム
が負けると、Tim itu dibubukin.と表現された。


何かに関連して人名が使われることは昔からの伝統だったようだ。細菌を発見したルイ・
パスツール(1822〜1895)は殺菌処理にその名前を残した。pasteurizationある
いはpasteurizedという術語にはパスツールの名前が使われている。医学関係ではX線を
発見した物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(1845〜1923)の名前
が医療機関で毎日語られている。健康状態の一番完全な検査をするときは、必ずronsenさ
れなければならないのだ。

産品に人名を付けることは、インドネシアでも昔行われたことがある。ふたりの平民が自
分の産品に名前を残した。かれらの名前はMujahirとMukibatだ。

ムジャヒルは1890年に生まれて1957年に没した東ジャワ州ブリタルの養魚業者だ。
かれは1937年に新しい種類の魚を発見した。現在われわれがmujairと呼んでいる魚だ。
いまやわれわれはどこへ行こうが大きいのや小さいムジャイル魚の料理を食べることがで
きるようになっているにもかかわらず、われわれの間でその魚の名前が発見者の名前であ
ることを知っている者はほとんどいないのではあるまいか。

ムキバッは1903年に生まれて1966年に亡くなったクディリの農民だ。このムキバ
ッさんはキャッサバとゴムの木を交配させて大きく重い芋をたくさん作る新種を生み出し
た。それが農業界でsingkong mukibatと呼ばれた。

ムジャイル魚は大勢のひとがあちこちで食べていて、毎日その名前がどこかで口にされて
いる一方、シンコンムキバッは違う運命をたどった。もっと条件の良い優良種が出現した
のか、それとも世間に知られなかった何らかの理由があったのか、シンコンムキバッは農
業界から姿を消してしまった。


西洋社会の様子と比べると、われわれのケースとは少々違うものが感じられる。西洋人の
名前の場合、文明・学術・テクノロジー・文化の進歩に対する大きい影響が感じられて、
それに関連するものが何であれ、その名前に関連付けれられる。パスツールやレントゲン
が代表的な例だし、他にも最初にその製品を作ったモース、ツェッペリン、ヘイリーなど
の名前を挙げることもできる。

インドネシアではその者が見つけたり作り出した産品にその人名が付けられるだけだ。バ
ルドソノが全インドネシアサッカー協会会長のときにパンチャシラサッカーを呼び掛けた
ことがある。グランドでサッカーチームが敗れたからといって、パンチャシラが危うくな
るほどの問題ではない。だがその結果、敗戦をdibardosonokanと呼ぶようなことはだれも
しなかった。

1950年代にブブキンの名前が売れたのは、それが別の意味を持っていたからだ。だか
らソニー・ドゥウィ・クンチョロがピーター・ゲイドに敗れなかったのはラッキーだった。
もし負けていたら、ソニーはdigadekanあるいはdigadeinされたにちがいあるまい。