「マドゥラ史略(1)」(2023年08月14日)

東ジャワ州スラバヤにつながるマドゥラ島の住民はマドゥラ族と呼ばれ、ジャワ族とは異
なる種族とされている。ドゥティコムの情報によれば、マドゥラ島への人間の移住が行わ
れたのは西暦紀元前4千から2千年ごろの新石器時代であり、そのころ中国大陸での覇権
争奪の激化によって中国大陸から東南アジア大陸部へのエクソダスが起こった。この移動
でビルマ・シャム・インドシナにプロトマレー人が誕生し、プロトマレーの諸集団はそれ
ぞれが独自の種族に発展した。

更にプロトマレー諸集団の一部が南のヌサンタラ地域に移動して島々に定住する者が出た。
コーチシナのピア、チャンパ、ジャイ族とマドゥラ族は祖先を同じくしていると考えられ
ている。各種族語の中で使われている語彙の中に見られる、共通あるいはたいへん類似し
ている単語とその発音、また頭蓋骨の形態や顔つきの類似性などから、その仮説が現在最
も有力な定説になっている。マドゥラ島で発見された古代人の頭骨は目の間が広くて平に
なっており、頬骨が高い。肌はきめが粗く、色黒だったと推測されている。

マドゥラ族の祖先がマドゥラ島にやってきたとき、そこに先住民がいたのかどうか、いた
とすれば土地をめぐる闘争が起こったのかどうか、そのあたりのことを物語る材料は何も
得られていない。少なくともマドゥラ族の祖先が新石器文明を携えてきたのは明らかで、
方形石斧や土を鋤く石器が古代遺物の中に見つかっており、かれらが石を研ぐ技術を持っ
ていたことが証明されている。

西暦1365年に書かれたナガラクルタガマには、太古の時代にマドゥラ島はジャワ島と
陸続きだったと記されている。14世紀のマジャパヒッ王国では、マドゥラ人はジャワ人
に特別の親近感をもたらす種族と見られていたのかもしれない。なにしろ、マジャパヒッ
王国の建国におけるマドゥラ人の貢献は比類ないものだったのだから。もちろんわたしは、
陸続き説を否定しているわけではない。


時の経過とともにかれらの子孫が増加して周辺の小島に散らばって行った。そして移住先
のエコロジーの容量に応じた集団を作った。中には数百人にのぼったところもあった。広
大な地域の中で分散が起こった場合は小集団が離れた場所に定住することがあったものの、
かれらは同じ一族という意識と同じ言語で結ばれていた。

だが世代が下ってきて地域性が強まると、各集団が閉鎖的になる傾向が起こって一体性の
感覚は弱まった。言語にも地域性が影響を及ぼして方言に変化し、西のバンカランから東
のカゲアン島までの間で二種類のマドゥラ語方言が話されている。


ジャワ島の自然の豊かさに比較すると、マドゥラ島の自然の貧しさは驚くほどの隔たりが
ある。不毛の陸地は住民に糧を行き渡らせることが困難なため、かれらは海で不足分を補
わざるを得なかった。半農半漁の暮らしがマドゥラでは当たり前のものになり、それは現
代にまで続いている。それでも糧は絶対量が不足した。こうして子供たちが大人になると、
ランタウすることがその解決のひとつの手法になった。今日、マドゥラ人はヌサンタラの
至るところにいて、大勢がソトやサテあるいはジャムゥの商売を行っている。

マドゥラ人がヌサンタラのあちこちにいるのはマドゥラ島が不毛の地だったからだが、そ
の因果関係を仲介したものがまた別にあった。強制栽培制度だ。オランダ東インド政庁は
マドゥラ島に栽培させられるものがないとして農業農園活動を命じることをせず、183
1年にマドゥラ人部隊を編成させて植民地軍の中に組み込んだ。バリ征服戦争やアチェ戦
争で植民地軍がそれらの土地を占領して現地の治安維持を行うとき、常駐する軍兵に土着
化する傾向が起こる。その土地で生まれた子孫は地元民として生きることになる。

またそれとは別に、海に強いマドゥラ人は他所で生産された品物を仲介する通商の世界に
も踏み込んで行った。逆境に生きてきたマドゥラ人社会に質実剛健の気風が育まれたこと
から、かれらがその性格をビジネスの場に注ぎ込むとき、ハードなネゴとビジネス姿勢が
展開されることになった。時にはそれがマドゥラ人に向けられる嫌悪の原因にもなったの
である。[ 続く ]