「マドゥラ史略(2)」(2023年08月15日)

マドゥラに興った王権もその実質パワーにおいて、ジャワの覇権の前には蟷螂の斧にしか
ならなかった。カリンガ王国、古代マタラム、マタラムスルタン国などのジャワの王国が
勢力を伸長してくれば、マドゥラは常にその属国になった。反乱や抵抗戦が起こらなかっ
たわけではないものの、結果はしょせん、知れたものだった。

西暦1017年以降にマドゥラの領主は自治を謳歌することができたとはいえ、アイルラ
ンガ王のクディリ王国やマジャパヒッ王国の統治下では、ジャワの王権に服従するマドゥ
ラ人という構図が普通のものになった。

1269年にシゴサリ王国最後の王クルタヌゴロがダハのパティだったアリア・ウィララ
ジャをマドゥラに移封してアディパティに任じたときに、ジャワにとってのマドゥラとい
う属国の歴史が始まったと言えるようだ。アリア・ウィララジャはポノロゴのアディパテ
ィの家に生まれ、成長してクルタヌゴロ王のブレーンのひとりになった。

クルタヌゴロ王がジャヤカッワンの反乱で倒されてシゴサリ王国が滅んだとき、クルタヌ
ゴロ王の婿ラデンウィジャヤはマドゥラのアリア・ウィララジャの元に逃れて捲土重来の
機をうかがい、マドゥラの軍勢の助力を得て目標を達成し、マジャパヒッ王国を興した。
アリア・ウィララジャはアディパティ就任後、現在のスムヌップの町からおよそ18キロ
離れたバトゥプティに王宮を設けて全島の統治を開始した。バトゥプティには王宮跡の遺
跡やジャワ風の舞踊が今に伝えられている。


16世紀に入ってから、ジャワ島北岸の諸領主のイスラム化が進展してマジャパヒッの王
権が弱まり、マドゥラもその権力構造の変化の中に呑み込まれた。ドゥマッ・グルシッ・
スラバヤなどとの関係が強まってマドゥラのイスラム化が始まり、マジャパヒッに対する
服属姿勢は昔日の比でなくなった。

イスラム化が進展するジャワ島内での覇権争奪がしばらく続く間、マドゥラは自立を謳歌
したことだろう。しかしイスラム化したジャワに究極の覇者が誕生したとき、マドゥラは
再び属国に戻る運命をたどることになった。マタラムスルタン国第三代の王スルタンアグ
ンが全ジャワに絶対王権を敷くことを目標にして全土を戦火の中に叩き込んだのだ。しか
しスルタンアグンの目論見は完成しなかった。かれが征服できなかった土地はジャワ島西
端のバンテン王国と、それに隣接するVOCのバタヴィアだけだった。ジャワ島東端から
西ジャワの東部までがマタラムスルタン国の支配下に落ちたのである。もちろん、マドゥ
ラ島も含めて。


スルタン・アグンがジャワ統一の動きを始めたとき、マドゥラにもその切っ先が向けられ
た。それに抵抗してマドゥラ人も刀槍を手に立ち上がったものの、ジャワの大軍の前には
抗しがたく、一大殺戮が展開されるに至ったのである、1624年にマドゥラ島は蹂躙さ
れた。マドゥラの王宮で生き残った王族はラデンパルセナただひとりであり、かれはスル
タンに服従してチャクラニンラ1世となり、マドゥラの統治権を与えられた。マドゥラ人
4万人がグルシッGresikに移住させられている。

チャクラニンラ1世の長男がラデンドゥマン・マラヤクスマだ。チャクラニンラ1世はマ
タラム王宮にいることの方が多かったため、マドゥラの統治はマラヤクスマが担った。マ
タラムのスルタンアグンが没するとアマンクラッ1世が後継したがすぐにパゲランアリッ
の反乱が起こり、アマンクラッ1世はマドゥラ勢にその鎮圧を命じた。チャクラニンラ1
世とマラヤクスマがマドゥラ人の軍勢を率いて鎮圧に向かったものの、ふたりとも戦場で
命を落としてしまった。

マドゥラ王家の者をマタラム王宮に置いておくのは、マタラム側にとって人材確保の効用
と共に人質の意味合いがあった。チャクラニンラ1世が戦死したためにマラヤクスマのま
だ幼い長男トゥルノジョヨがマタラム王宮に入った。マタラム王宮で成長したトゥルノジ
ョヨは、祖父と父を戦場に送って戦死させたアマンクラッ1世を憎んだ。[ 続く ]