「マドゥラ史略(3)」(2023年08月16日)

成人したトゥルノジョヨは陰謀と奸計の渦巻くマタラム王宮での暮らしを嫌い、そこから
26キロほど離れたカジョランで暮らし始める。カジョランでラデンカジョランと知り合
い、その仲介でアマンクラッ1世の皇太子と親しくなった。皇太子は父王を憎んでおり、
互いに意気投合したふたりはアマンクラッ1世に対する叛乱計画を練り始めた。トゥルノ
ジョヨは1674年、ついにマタラム王宮に対して反乱を起こす。

カラエン・ガレソン率いるマカッサル人戦闘部隊の支援を得て、トゥルノジョヨの反乱軍
はマタラムの支配下に落ちていたジャワ島北岸地方を続々と平定して気勢を上げた。そし
てついに1677年、マタラムの王都プレレッを陥落させてマタラム王宮を踏みにじった
のである。アマンクラッ1世は皇太子を連れ、王宮を捨てて北岸地方に逃げた。1世の末
子であるパゲランプグルを置き去りにして。

マタラムの王権を奪って新王になり国家統治を行なうという気がトゥルノジョヨにはなか
ったのだろう。かれは恨みと憎しみを晴らせばそれで十分だったようだ。反乱軍の略奪の
嵐が王宮内に吹き荒れただけで王宮はそのまま残され、隠れていたパゲランプグルが王宮
に戻って戦力の再構築を開始する。トゥルノジョヨはクディリの本拠地に帰還した。


アマンクラッ1世は北岸地方を西に下ってバタヴィアのVOCに保護を頼るつもりだった
が、その旅の途中で死を迎えた。王宮から逃げたふたりを守護するのは身近な腹心だけで
あり、護衛部隊兵士のいない落ちぶれた逃亡行だった。父王が死んでアマンクラッ2世に
なった皇太子も途方に暮れた。そしてVOCを頼る以外に何の方策も残されていないこと
を覚った2世がVOCに反乱鎮圧を要請した。報酬は金とスマランの割譲だ。

VOC軍が動き出した。マカッサル人とアンボン人の二軍にバタヴィアのヨーロッパ人部
隊を合流させ、アマンクラッ2世に忠実なマタラム軍と合同でトゥルノジョヨがマタラム
から奪った北岸地方をふたたびマタラム領に戻してから、最終的にクディリへの攻撃を1
678年9月に開始した。

アマンクラッ2世はその大軍を三つに分け、それぞれがあちこちの町を通過してマタラム
軍の威容を示すようにさせた。それは人心をトゥルノジョヨからマタラムに引き戻すのを
目的にした行動だった。おかげで、各地で武装集団がマタラム軍に加わり、軍容が膨れ上
がった。この種の武装集団とは日本で言う野武士・野盗の類であり、勝つであろう方の軍
隊に加わって戦争し、戦場で略奪を行って稼ぐ者たちだ。フランソワーズ・タック大尉が
指揮する攻撃部隊によって1678年11月にトゥルノジョヨの本拠地は陥落した。

勝ったアマンクラッ2世はスラバヤに凱旋した。プレレッ王宮のパゲランプグルがアマン
クラッ2世に敵対しているのだから、本来の王宮に戻れるはずがない。アマンクラッ2世
はスラバヤに仮宮殿を設けてそこを本拠にしていたのである。

陥落したクディリの本拠地から逃げたトゥルノジョヨは山岳地帯に隠れながら転々として
いたが、結局1679年末にマランのガンタンで捕らえられてVOC軍の捕虜になった。
ところがVOC軍はこの捕虜を指揮官お抱えの捕虜として厚遇したのである。それを見た
アマンクラッ2世は、VOCがトゥルノジョヨと手を組むのではないかと恐れたようだ。
もしもそうなれば自分の立場が危うくなる可能性が高い。

1680年1月、トゥルノジョヨが東ジャワのパヤッに住む貴族の家で開かれる宴に招か
れた。同じように招かれたアマンクラッ2世はそこでトゥルノジョヨに会い、自分のクリ
スを抜いてトゥルノジョヨを刺殺した。

VOCはマタラム王の勝手な行為に怒ったが、マタラム王はトゥルノジョヨが自分を殺そ
うとしたので仕方なかったと言い訳したそうだ。オランダ人がそんな言い訳を信じるはず
もなかっただろうが、マタラム王を握ってうまく利用するほうが得策と考えたにちがいあ
るまい。VOCはアマンクラッ2世に罰を与えることをしなかった。


一方、プレレッの王宮を回復したパゲランプグルは、兄のアマンクラッ2世を敵視した。
王宮を死守しようとしない王がいてたまるか、という気持ちだったのではあるまいか。1
681年になってこの兄弟間の戦争はやっと終わり、VOCをバックに持つアマンクラッ
2世がマタラム国王の座を確保した。パゲランプグルはもっと後にアマンクラッ3世を追
放し、パクブウォノ1世として王位に就いている。[ 続く ]