「マドゥラ史略(4)」(2023年08月18日) チャクラニンラ1世より前の時代のマドゥラ島の内政に関するオーセンティックなデータ は数少なく、あまり詳細な点までは分かっていないそうだ。1255年の年号を持つムラ マルルン碑文はマドゥラに王国が存在していることを記しているものの、その碑文の中で 王あるいは統治者の名前の書かれている部分が消滅している。 マランで発見された碑文にもマドゥラの王国の支配者が記されている。ところがこの碑文 の支配者の名前の部分も消滅しているのだ。これが自然現象なのか人為的な作為なのかに ついての議論が発生した。それが人為的なものであったのなら、それを引き起こした状況 に光を当てる手がかりになるかもしれない。この問題は後世への課題として歴史学界の未 決箱の中に置かれている。 一方、1294年のクダドゥ碑文には、Songenep(スムヌップの古名)の王ナラリヤ・マ ドゥラ・アディパティ・ウィララジャがマジャパヒッ創始者のラデンウィジャヤを助けて グラングラン(クディリ)のジャヤカッワンを撃ち破り、そのあとモンゴルの軍勢をジャ ワの地から追い払った物語が刻まれている。 マドゥラ島は現在、東端のスムヌップ県から西に向かってパムカサン県、サンパン県、バ ンカラン県と並び、県境は北から南にほぼ一直線に島を分断していて、各県の主要都市は すべて南海岸部にある。 元々は各地に散らばったマドゥラ人が地方化の進展によってそれぞれの地区に統治権力構 造を作ったようだ。その後、ジャワからの支配権の手が伸びて全島の一括統治者が置かれ、 各地区の統治者はジャワの王権代表者としての全島統治者に服従してその下部構造に変化 したように思われる。 つまり各地区の統治者の立場は一般的に言われている領主のようなものだったと見なして 良いようにわたしは思うのだが、インドネシア語ではそれらが王と呼ばれ、王宮に拠って 領民統治を行なっていた体裁で述べられている。KBBIによるイ_ア語rajaの定義は、 王国kerajaanの最高位者、特別な地域の主・種族の長・スルタン、ある環境で巨大な権力 を持つ者などとなっていて、日本語の王の語義である「世襲による国家の統治者」の語義 と正確にマッチしているわけではない。 だから本論においてスムヌップの王、バンカランの王などと筆者が書いているのはインド ネシア語の感覚に合わせたものであることをご理解いただきたく存じます。日本語でこの ような場合のヒエラルキーの高低を表現するのに大王・小王という使い方があるものの、 マドゥラのケースではニュアンスがフィットしないために使わない。かれらスムヌップの 王、バンカランの王たちはジャワの宗主が封じた太守の下位に就く地場の統治機構の最高 位者であり、地場の平民にとっては言うまでもなく「王」に該当していると思われる。 似たような話を思い出したが、王kingと皇帝emperorには格の高低があり、皇帝の方が王 よりも上位のヒエラルキーにいるのだからエンペラーと呼ばれている日本の天皇は世界の 諸王国のキングたちよりも高位だという説を信じるひとが世界のあちこちにいるらしい。 皇帝の下に王がいるという構図からその結論が導かれたようにわたしは感じるのだが、そ れはその皇帝の支配領域内という環境においてのみ成立する現象なのではないだろうか。 皇帝の支配領域の外にいる王と何を基準にして格の高低を測るのだろうか。皇帝に服属し た王も服属しない王も名前が「王」なのだから同格であり、皇帝は服属した王の上にいる のだから、実際の関係がどうあれ、格が上だという解釈は人間の観念主義教育の結果であ るように思えてならない。 日本が一国家としてのまとまりを持ってから、日本の天皇は王と呼ばれる国家統治者を従 えたことがあったのだろうか?天皇がemperorという言葉にはじめて翻訳されたとき、そ れは単なる言葉の綾のようなものでしかなく、現代語emperorの語義との不一致をみんな が放置した結果が現在の「日本の天皇が現存する世界唯一のエンペラー」という現象にな って残されているのではないかとわたしは考えている。少なくとも、そんな格の上下の説 を信じて日本の天皇に特別な畏敬を抱く外国の王様女王様はひとりもいないという話だ。 [ 続く ]