「マドゥラ史略(5)」(2023年08月21日)

1837年にオランダ東インド政庁はマドゥラの全島をレシデン行政区にしてパムカサン
に首府を置いた。レシデンは各地の王が王宮に拠って領民を支配している統治行政システ
ムの中に割り込んだわけだ。オランダ人レシデンがプリブミの王たちの持っている支配権
をその掌中に握るのである。いくらマドゥラ島の統治権がジャワのスルタンからオランダ
人に譲渡されたとはいえ、従来の統治体制が崩されるのだからマドゥラ人自身が無抵抗で
言いなりになるはずもない。それが人間というものの普通のあり方だろう。

最高統治者である王の権力の一部をレシデンが王の下の行政官であるパティに移管させた
ために専制的だった王がシンボル化されはじめ、パティは首相のような機能を持つように
なっていった。レシデンはパティをレシデン統治の直属の部下であると同時に中心的存在
の立場に位置付けて、レシデン統治機構の中に抱き入れたのである。

王族貴族が農地の所有権を持つことで生計を成り立たせていたシステムが東インド政庁に
よる農地の課税システムの開始によって崩れ、王族貴族の経済生活が大きく揺さぶられた。
その王族貴族たちをレシデン統治システム内での官僚にすることで、公務員給与がかれら
の生活を支える形態に変化した。


パムカサンでは、パムカサンの王パゲランアディパティ・アリオ・スリオ・クスモでなく、
王の官僚であるパティをレシデンが統治行政の中心人物にしたために、この官僚機構化に
よって王権が縮小した。オランダがマドゥラ島を直轄行政区にする最初のステップがそれ
だった。シンプルで統制のとれた官僚行政組織の中では、王は不必要な駒になる。

領民統治が二頭政治の形に向かった。統治支配機構の本流から外された王が反オランダの
旗幟を鮮明にしては何かと困る事件が起こるかもしれないため、オランダ側は1842年
に王座を公式に安堵した。しかしその後、王が病気に陥ったのをこれ幸いとして、185
3年に王宮を官僚機構から排除した。

スリオ・クスモはオランダ人に反抗し、砂糖工場の賃金1.3万フルデンを納めなかった
ために汚職容疑がかけられた。また1852〜53年の政庁への貢納金7万フルデンも納
めていない。最終的にパムカサンは1858年に県になり、王制が廃止された。


東インド政庁は次のターゲットをスムヌップ王宮に据えた。ところがスムヌップ王宮はジ
ャワの王国と姻戚関係を持っていて、なかなかオランダ側の思い通りには進まない。

1854年に亡くなった先王の後継者になったパネンバハン・ノト・クスモは、パティが
行政府の中心的存在になるのを放置したと言われている。パティ行政府はレシデンの決定
を仰ぐ自治体に変化し、王の意向を実行する行政府でなくなった。

レシデンはパティという役職名称をトゥメングンというもっと高位の名称に変え、行政府
の官僚全員に対して植民地政庁が給料を与える方式に変えた。

1873年にパネンバハン・ノト・クスモが病床に就くと、レシデンはスムヌップを県に
するよう政庁に進言した。しかし政庁はすぐには動かず、1879年にノト・クスモが病
没してからスムヌップの王制廃止に動き出した。

まずノト・クスモの養子パゲランアリオ・マンク・アディニンラを1881年にスムヌッ
プ県令に任じ、1883年に王制を正式に廃止したのである。


バンカランでもパティは1847年から公務員給与をもらう立場に変わった。だがここで
もバンカランの王であるパネンバハン・チャクラ・アディニンラの扱いに苦慮し、186
2年にチャクラ・アディニンラが死去するまで強硬な進め方はなされなかったようだ。

チャクラ・アディニンラが皇太子に指名した末弟のパゲランアディパティが1887年に
死去したことで、プリブミ側の統治体制が紛糾した。[ 続く ]