「奴隷から王に(9)」(2023年08月21日)

イ_ア語ウィキぺディアのこのウントゥン・スロパティのページにまだ若いウントゥンの
肖像画が貼られていて、ピーテル・クノルとコネリア・ファン・ネインローデの使用人時
代という説明が添えられている。この絵は1665年にヤコブ・ヤンセンス・クーマンが
描いた有名なピーテル・クノルとコルネリア・ファン・ナイエンローデ夫妻の家族肖像画
の一部であり、ウントゥンはコネリアのすぐ後ろに立っている。

ヤコブ・クーマンは1663年にオランダからバタヴィアに移り、1676年に没するま
でバタヴィアで高官たちの肖像画を描き続けた純血オランダ人画家である。

コネリア奥様もファン・デル・プルフ奥様のように粗相した奴隷を折檻したのだろうか?
日本語でコルネリア・ファン・ナイエンローデと書かれているオランダ語綴りは現代オラ
ンダ語での発音がコネリア・ファン・ネインローデと聞こえるので、わたしはそれを音写
していることをお断りしておきたい。古オランダ語の発音が検証できれば一番よいのだが、
調べ方がよくわからない。

コネリアの家族肖像画に描かれている人物がウントゥンであるとすれば、ウントゥンは1
660年生まれとなっているのだから、その家族肖像画が描かれた年にはまだ5歳だった
のではないだろうか。しかしどう見てもその画像の人物が5歳であるようには見えない。
ウントゥンがいつからファン・モールに使われるようになったのかがはっきりしないのだ
が、ファン・モールはピーテルとコネリアの夫婦からウントゥンを買ったのだろうか?何
かがおかしいように思われる。


タンジュンプラに戻らず、そのままカルトスロに向けて東進したウントゥンの部隊はVO
C軍に追われる立場になった。味方の部隊を攻撃して滅ぼし、そのまま逃げたのだから、
軍規違反であり、謀反人になる。

タシッマラヤのラジャパラ村に達したとき、ヤコブ・クーペ率いる追跡部隊が追い着いた。
投降して軍の裁判を受けろという追跡部隊指揮官の説得を聞き入れる者はウントゥン部隊
にひとりもいなかった。公平な裁判など期待できないということだったのかもしれない。
クフェラーもどきが裁判官の座にすわったら、それだけで判決は決まったようなものだろ
う。

戦闘が展開されて、ウントゥン部隊はVOC部隊を粉砕した。これでウントゥン部隊は完
全にVOCの敵になったことになる。一行はカルトスロへの進軍を続けて、グシッ・クス
モを無事にパティの宮殿に送り届けた。娘が無事に戻ったことをヌランクスモはたいへん
喜び、ウントゥンとその部下たちを重要な客人として邸内に迎え入れた。

ヌランクスモはカルトスロ王宮内の反オランダ急先鋒のひとりであり、主君アマンクラッ
2世が王座を回復するために行ったVOCとの提携を取り消すよう、王に進言し続けてい
る人物だった。かれは娘の希望を聞き入れて娘をウントゥンと結婚させ、ウントゥンを自
分の婿にした。こうしてウントゥンはマタラム王家の上層部と交わるようになり、必然的
にその内紛に巻き込まれていく。


1674年、アマンクラッ2世がまだ皇太子の時期にトゥルノジョヨの反乱が起こった。
父王のアマンクラッ1世が鎮圧に努めたが、反乱軍はマカッサルから援軍を得て破竹の進
撃を見せ、先王のスルタンアグンが平定したジャワ島北岸部一帯を総なめにしてマタラム
の覇権を粉砕した。そしてついに1677年、マタラムの王都プレレッPleredを陥落させ
てマタラム王宮を踏みにじったのである。アマンクラッ1世は皇太子を連れ、王宮を捨て
て北岸地方に逃げた。1世の末子であるパゲランプグルを置き去りにして。

トゥルノジョヨはマドゥラ王家の人質として幼いころからマタラム王宮で成人したマドゥ
ラ人であり、どうしたことか陥落させたプレレッのマタラム王宮を乗っ取ることをせず、
クディリに本拠地を置いてそこの支配者になった。[ 続く ]