「マドゥラ史略(6)」(2023年08月22日)

王位継承者としてチャクラ・アディニンラの孫を担ぐ一派とパゲランアディパティの息子
を推す一派に領地内が割れた。しかしチャクラ・アディニンラの孫はまだ8歳であり、政
務を司るには無理な年齢だ。一方のパゲランアディパティの息子は王になるための能力に
欠けているという意見が大勢を占めたから、この紛糾はなかなか決着しなかった。レシデ
ンはそれを好機と見なした。

レシデンはバンカランの領地をバンカラン地区・ブレガ地区・サンパン地区に三分割して
はどうかと提案したのだ。サンパン地区はレシデンが直接統治するという条件で。

バンカランの王宮は最初それを拒否したが、長い交渉の果てに最終的にサンパン地区をレ
シデンの統治下に移すことに同意した。こうしてサンパン県が生まれた。

しかしバンカランとブレガの分裂は起こらず、結局チャクラ・アディニンラの伯父にあた
るパゲランスリオ・ヌゴロが先王の後継者の地位に就いた。レシデンはスリオ・ヌゴロを
バンカランの県令として行政機構内に置き、1885年11月1日にバンカランは県とし
て生まれ変わったのである。


バンカラン王宮の消滅を受け入れられない王族たちがレシデンに対して強い抗議を表明し
た。その中心人物のひとりがラデンアリオ・スリオ・アディニンラだ。かれのふたりの息
子はプリブミの強力な武装集団を指揮していた。レシデンはアリオ・スリオ・アディニン
ラを西ジャワのバンドンに流刑した。すると案の定、息子たちに率いられたおよそ8百人
のマドゥラ人民兵組織が動いて、バンカラン王宮を占拠したのである。占拠者たちはプリ
ブミの王を作れと要求した。

レシデンはその動きを力で抑え込むために、スラバヤから植民地軍歩兵一個大隊を動員し
て占拠者を王宮から排除した。戦闘は発生しなかった。実にオランダ人は、マドゥラ島の
行政統治体制を王制から官僚制に切り替えるために50年近い歳月をかけるという辛抱強
さをマドゥラ人に対して示したことになる。


マドゥラという言葉はサンスクリット語で美しい・優しい・可愛いといった意味なのだそ
うだ。ところが南インドにマドゥラという名前の地方があり、そこは乾燥気候で土地が貧
しく、マドゥラ島とよく似た自然環境になっている。ひょっとしたら、その共通性がこの
島に与えられた地理名称の由来だったのかもしれない。

総面積5,304平方キロのこの島は北岸と南岸の間が40キロしか離れていない。島の
中央部を形成している石灰岩の丘は平坦で、一番高いTembuku山ですら海抜471メート
ルしかない。北のジャワ海と南のマドゥラ海峡を流れる熱風は平坦なこの島を容易に吹き
抜けていく。雨が降らなければ緑は育たず、荒涼たる石灰岩のランドスケープが姿をあら
わすのも当然の帰結だっただろう。


マラヤ半島とマルクのスパイス諸島を結ぶ航路は、南シナ海からボルネオ島北岸を経るル
ートと、ジャワ海を通るルートのふたつが作られた。文明発展レベルのより高かったジャ
ワ海ルートにたくさんの港ができた。物資補給や通商の便がくらべものにならなかったの
ではないだろうか。たとえ距離が長くなったとしてもそのルートを採る船のほうがはるか
に多かった可能性が感じられる。

そんな状況が、マドゥラ島北岸にあるドゥンケ、パソンソガン、アンブンテン、スロペン
などの諸港へのアラブ・ペルシャ船や中国船の来航を促した可能性が推測される。Dungkek
という地名の由来としてドゥンが最初を意味し、ケッは中国語の客から摂られたのではな
いかという説があるくらいだ。パソンソガンも昔から国際港になっていた様子を今に残し
ている。

アラブ・ペルシャ船や中国船が持ってくる商品とは別に、船乗りたちが運んでくる文化を
マドゥラ人も積極的に摂りこんだに違いあるまい。[ 続く ]