「マドゥラ史略(終)」(2023年08月23日)

そんな諸港に住み着く華人が古くからいた。ずっと以前に通商のために訪れた者たちはた
いてい北岸諸港に住み着いた。それ以後も、13世紀末の元軍のジャワ島進攻の際に残っ
た者、更には1740年にバタヴィアで始まった華人街騒乱を逃れて逃げてきた者たちも
マドゥラ島に住み着いたから、マドゥラ島の華人系子孫と言っても、祖先の時期も背景も
さまざまに異なっている。

ところが面白いことに、マドゥラ島にはプチナンがないと言われているのだ。プチナンと
は中華街あるいは華人居留地区を意味している。ヌサンタラのどの街に行こうが華人系プ
ラナカンが集まって住んでいる華人街が存在していて、そこには町中に中華風の建築物が
たくさん見られ、中華文化が顕著に示されて、異国情緒を色濃く漂わせている。

マドゥラ島に華人プラナカンがいないわけではないにもかかわらず、かれらが中華文化を
外に向けてアピールしないことがマドゥラ島内にだけ起こったということが言えるだろう。
マドゥラの特異性がこの面にも表れているようだ。


パソンソガンのあるカンプンには50世帯ほどの華人系マドゥラ人が住んでいる。そこの
華人系のひとびとによれば、かれらの祖先はスラバヤのアンペルにスナンアンペルが設け
たプサントレンのサントリだったそうで、そのカンプンの子孫たちもマドゥラ人一般と同
様の篤信なイスラム教徒だ。

住民は自分たちのカンプンをプチナンと呼ばない。かれらは何世代にもわたって地元民と
結婚し、地元民の一族と深いつながりを結んで生活習慣をひとつにしており、自分たちの
中華血統を世間に示すことをしない。かれらは自分を中華文化の子であると意識していな
いということなのだろう。

あるムスリム華人の一家は、祖先がそこに住み着いてから七代目の子孫に当たると説明し
た。その家系が土着化していると言っても、中華文化をまったく持っていないわけでもな
い。中国に由来する伝統や知識の中に世代を越えて伝えられているものがある。たとえば
マドゥラを訪れた鄭和の航海に関するものやハドラマウトコミュニティがマドゥラにやっ
てきたときの話が、その一家ばかりかムスリム華人コミュニティの間での社会記憶として
語り伝えられている。

同じように、中華文化に由来する漢方医薬の知識も相伝されていて、それがマドゥラ特産
のジャムゥを生む源泉になった。


地元文化に中華文化が混じり込んだ例としてよく言及されるのがスムヌップ王宮と大モス
ク、そして王家の墓地の一部の建物だろう。プリブミ領主の下でそれらの建物を設計した
のは移住華人だった。名前をLauw Pia Ngoと言う。

ラウ・ピア~ゴは1740年に起こった華人街騒乱がジャワに拡大したときスマランから
逃げてきた6人の華人のひとりだったそうだ。その事件のためにジャワの各地からマドゥ
ラ島に逃げて定住した華人は少なくなかった。かれらがマドゥラにプチナンを作らなかっ
た理由は華人街騒乱という背景からそこはかとなく感じることができる。しかしもっと以
前に住み着いた華人とは事情が異なっているのだから、華人街騒乱をマドゥラ島にプチナ
ンがないという現象の原因にはできないようにわたしには思われるのだが、果たしてどう
だろうか。[ 完 ]