「奴隷から王に(13)」(2023年08月25日)

これは言ってみればアマンクラッ2世〜3世の筋につながるウントゥンという派閥構造と
解釈されるわけで、つまりはカルトスロがパクブウォノ1世の派閥に握られたとき、VO
Cにウントゥン撃滅の機会が開かれたということになるのではないだろうか。パクブウォ
ノ1世自身がウントゥンを積極的に滅ぼしたかったのかどうかはよくわからないものの、
パクブウォノ1世を王座に着かせたVOCがウントゥン撃滅の旗を振ればもはやその意向
をそらしてまでウントゥンをかばおうとする気がパクブウォノ1世に起こらなかったこと
は推察されるにあまりある。

アマンクラッ2世に随順していたスラバヤもマドゥラも、アマンクラッ3世からパクブウ
ォノ1世に忠誠を移し替えた。アマンクラッ2世の下でどれほど親しく交際した経緯があ
っても、主君がVOCの号令を受けてパスルアン攻略の命をスラバヤやマドゥラのアディ
パティに下せば、かれらはウントゥンの敵にならざるをえない。

1706年9月、ホーヴァート・クノール少佐の指揮下にVOC軍を中心に据えたカルト
スロ・マドゥラ・スラバヤの大軍がパスルアンを目指した。パスルアン軍はスラバヤとの
領境に近いバギル村の要塞で防戦する。そして1706年10月17日の戦闘で、パスル
アン軍の総指揮官トゥムングンウィロヌゴロは銃弾を受けて戦死した。

死に際してウントゥンは息子たちと重臣に、自分の死を秘匿するよう命じた。遺体は土に
埋められたが墓標も盛り土もない墓だった。ウントゥンの陣頭指揮がなくなってもパスル
アン軍の抗戦は続き、担架に偽物ウントゥンを載せて後退して行くパスルアン軍の姿がV
OCの目に映った。


ニコリナ・スロートの小説はウントゥンの最期を次のように描いている。しかしロバート
が登場していて話の経緯がどうしても必要になるため、最期に至る経緯を知っておいてい
ただくほうがわかりやすいのではあるまいか。ということで、その経緯からまず話を始め
ようと思う。

オンゴジョヨの宮殿は美しく壮大で、強固な王国の王宮としてふさわしいものだった。ウ
ントゥンは宮殿のシティンギルにつながっている自分の執務室を好みの様式に変えた。シ
ティンギルとは王が接見のために座る玉座の置かれた大広間のことである。王宮でない場
合はプンドポと呼ばれる。

ウントゥン自身は自分を実質的に国王と考えているが、対外的には一地方領主という体裁
を取っている。だから自分をトゥムングンとしか呼ばないわけだ。その方がマタラム王宮
との関係で人心の感情面に配慮していることになるようにわたしには思われる。


ウントゥンの執務室はオランダ風のスタイルに変えられた。スラバヤで作らせたオランダ
調の素晴らしい家具が置かれ、壁には虎や鹿の頭のはく製、そしてさまざまな武器が飾ら
れている。この部屋に入ることができるのはウントゥンにきわめて身近なひとびとだけで
あり、家族以外ではアミラン・クスモ、キアインブン、ウィラユダなどほんの数人しかい
なかった。

その日、クディリとスラバヤから来た使者を接見したあと、ウントゥンはテンゲルで王子
に刃向かった者たちを裁くために被告たちをプンドポに連れて来させた。重い鉄鎖を手に
付けられた被告たちは牢獄の看守長に連れられてやってくると、プンドポの端でひざまず
き、プンドポの中央にいざり寄って来た。ところがひとりだけ、ひざまずかないで立った
ままの者がいる。看守長が手に持った棒でその若者をひざまずかせようとしたが、若者は
従おうとしない。「わたしはイスラム教徒でなく、キリスト教徒だ。キリスト教徒がひざ
まずくのは神だけだ。神でない人間にひざまずくことはしない。その棒でわたしを打って
殺すがいい。そうすればわたしはいざって進むようなことをしなくて済む。わたしは人間
だ。けだものではない。人間はけだもののような歩き方をしない。」
[ 続く ]