「奴隷から王に(終)」(2023年09月05日)

ウントゥン・スロパティとグシッ・クスモの間に生まれた子供たちはラデンプガンティン、
ラデンスロパティ、ラデンスラディラガ、マサユグンディンの四人だ。娘のマサユグンデ
ィンはブランバガンの王プラブダヌレジョの妃になった。

小説ではバカ殿に描かれた王子たちだが、かれらは父に仕えた信奉者を率いてアマンクラ
ット3世を奉じ、VOCとパクブウォノ1世の爪から3世を護ることに努めた。その旧ス
ロパティ軍はジャワ人とバリ人の混成軍団だった。

マランに本拠を置いた3世は病に冒されて不自由な身体になり、VOCとカルトスロ連合
軍の攻撃に抗しきれずブリタルに逃げ、さらにクディリに移り、最後にスラバヤで170
8年に降伏した。そしてバタヴィアに移され、さらにスリランカに流刑された。スロパテ
ィの王子たちの中に、3世の降伏に従ってVOCに捕らえられ一緒にスリランカに流され
た者がいる。3世は1734年にスリランカで没したと記されているが、スロパティの王
子の話は見当たらない。


ウントゥン・スロパティが死に、アマンクラット3世が流刑されたあと、VOCは大掃除
を進めたようだ。1709年になってスラバヤのアディパティジャンラナが1706年の
パスルアン進攻の際にパスルアンに内通していたことをパクブウォノ1世に報告したので
ある。スラバヤの中から反VOC姿勢を完璧に消滅させる意図でなされたことは明白だっ
たが、パクブウォノ1世はVOCに操られざるを得なかった。

取調べが行われ、あのときスラバヤ軍が本気で戦争しようとしていなかったことが明らか
にされた。そんな部下が処刑されるのはジャワの作法ではないかとVOCに迫られたパク
ブウォノ1世は操られるままに動いた。1709年、オンゴウォンソはカルトスロの死刑
執行人が手にしたクリスの一突きによってスロパティの後を追った。


オンゴウォンソの処刑のあと、スラバヤの統治が乱れた。年上のアルヨジョヨプスピトと
下の弟ガベイジャンラナのふたりの弟の間で支配権が争われ、そして領地分割が行われた。
1714年にアルヨジョヨプスピトはパクブウォノ1世の王宮に参内することをやめた。
それは造反の意思表示を意味している。そしてかれはグルシッ、トゥバン、ラモガンを味
方に引き入れてカルトスロから離反させた。

1717年、ふたりはパクブウォノ1世に対して武力蜂起を行った。このスラバヤ反乱軍
には旧スロパティ軍の生き残りバリ人が多数加わっている。それをスロパティの王子たち
が率いていたような話もある。VOCカルトスロ連合軍はスラバヤに進攻してスパンジャ
ンに布陣した。その戦争でガベイジャンラナが戦死した。攻撃を支えきれなくなったジョ
ヨプスピトはモジョクルトのジャパン村に逃げた。スラバヤはパクブウォノ1世の手に戻
った。

ジョヨプスピトは1719年に起こったカルトスロに対するパゲランブリタルの反乱を支
援してカルトスロに刃を向けている。そのときパクブウォノ1世は死去して息子のアマン
クラッ4世が即位したばかりだった。

ジョヨプスピトは1723年に病気で死亡し、ジョヨプスピトの反乱はその年に幕を閉じ
た。その結果VOCに捕らえられたスロパティの王子がスリランカに流刑されたという話
を書いている資料もある。

ウントゥン・スロパティの三人の王子がそれぞれどんな運命をたどったのかについては、
それを物語る資料を見つけることができなかった。


ウントゥン・スロパティについては、時のオルバ政府が1975年11月3日付の大統領
決定書第106/TK/1975号で国家英雄に叙した。

現在首都ジャカルタの高級住宅街メンテン地区のディポヌゴロ通り北側の公園にスロパテ
ィ公園の名が与えられている。その命名は共和国独立後ほどなくなされたそうで、国家英
雄叙勲よりもだいぶ前のことになる。大多数のインドネシア国民にとって、ウントゥン・
スロパティの名は反オランダ闘争の元勲のイメージが圧倒的に強いにちがいあるまい。

それを西洋文明に開眼したひとりのプリブミという形で描いたニコリナ・スロートの小説
をわれわれはどんな角度から見ればよいのか、意見が衝突するところだろう。[ 完 ]