「ジャワの田舎にJapanがある(1)」(2023年09月06日)

東ジャワの州都スラバヤの南西にモジョクルト県があり、その県域のほぼ中央からちょっ
と北よりの位置にモジョクルト市がある。インドネシアの県と市は同格の地方自治体であ
り、それぞれが同じレベルで州内の最上部行政区画を構成している。つまり県令と市長は
別々の行政区画の長であり、上下関係にないということだ。

地図を見ると、モジョクルト市域の南西端からほんの目と鼻の先にJapanという文字が見
つかる。このジャパンは村の名前であり、モジョクルト県ソーコ郡ジャパン村というのが
公式地名になっている。インドネシア語で書くとDesa Japan Kecamatan Sooko Kabupaten 
Mojokertoとなる。このジャパン村という名前はいったい何に由来しているのだろう。ひ
ょっとして、それは日本を指しているのだろうか?

ソーコ郡という名称からして日本人に何かを感じさせる地名ではないだろうか。もしかし
て、日本が倉庫の中に押し込まれているようなイメージが湧いた読者はいらっしゃらない
だろうか?


いや、ジャパンという名称がこの村にだけつけられているのでもない。このジャパン村か
らおよそ十数キロ北にもジャパナン村がある。Japanの語根に接尾辞-anが付けられいるよ
うな印象を受けるから、この村もジャパンに関係しているのかもしれない。この村の公式
名称はモジョクルト県クムラギ郡ジャパナン村となっている。

さらに、やはりモジョクルト県内にあってモジョクルト市から十数キロ東方のモジョサリ
郡モジョスルル村にもJapanという地名を持つ場所があるそうだ。もしもそれらのジャパ
ンが日本を指しているのであれば、モジョクルト県というのはなんという親日的な土地な
んだろうかと感動するひとがきっと何人も出現するだろう。モジョクルトとはいったいど
のような土地なのだろうか?


モジョクルトとはジャワ語のmajaとkertaが組み合わさった言葉だ。モジョは食用薬用に
なる実を作る巨木で、対候性に優れているが葉が落ちやすい。日本語ではベルノキと呼ば
れている。インドやバングラデシュ原産とされてはいるが、ジャワ島のスラバヤに近い場
所にもこの樹が昔からうっそうと生えていたのかもしれない。

一方のクルトは元々繁栄や成果を意味するサンスクリット語krtaがジャワに持ち込まれ、
ジャワ人がその意味を持たせながら都市の地名にしばしば使ったことから、-カルタ・-カ
ルト・-クルタ・-クルトなどの発音に転訛して、地名としての暗意が含まれるようになっ
た。ちなみにこの言葉が使われているジャワ島の地名には次のようなものがある。
Jakarta, Jayakarta, Yogyakarta, Mojokerto, Purwakarta, Purwokerto, Tanjungkerta, 
Kartasura, Surakarta, Kertosono, Wonokerto, Girikerto, Kartapura, 


majaという言葉はもちろんMajapahit王国に関係を持っている。モジョパヒッの意味は苦
いモジョの実だ。モジョパヒッ王国開祖のラデンウィジョヨがシゴサリ王国の再興を決意
した後、現在のモジョクルト県北部を流れるブランタス川沿いの森林を切り開いて村を作
り、モジョパヒッと命名した。川には港が作られてチャングと名付けられた。

ブランタス川デルタ地帯という肥沃な地味と内陸部奥地まで交通の便を提供する大河とい
う地の利は、優れた経済性をモジョパヒッにもたらした。ブランタス川はずっと昔から東
ジャワにおける交通の大動脈だったのだ。チャングはモジョパヒッにとっての経済の表門
という役割を果たすことになったのである。


ラデンウィジョヨはジャワ征伐にやってきたモンゴル軍を操って、シゴサリ王国を滅ぼし
たクディリのジョヨカッワンを倒し、戦勝気分のモンゴル軍の油断を衝いてモンゴル軍を
海に追い払い、シゴサリ王国を継承するモジョパヒッ王国を1293年に建国した。かれ
は王都をチャングから少し東方のタリッに置いたが、二代目の王ジョヨヌゴロが王都をも
っと南のトロウランに移した。

ラデンウィジョヨがタリッに王国の都を開いた時、ジャパンは既に小規模ながら集落の体
を成していたと思われる内容がいくつかの碑文の中に見つかっている。タリッからほど近
い西部に住民集落があるという内容だ。[ 続く ]