「ジャワの田舎にJapanがある(2)」(2023年09月07日)

トロウランは今のモジョクルト県の南部にあり、ソーコ郡の南西に接してトロウラン郡を
形成している。ヨグヤカルタからソロを経由してスラバヤに達する国道15号線がそこを
走っていて、わたしがジャカルタ〜バリ間を車で走るときはいつもソロからモジョクルト
の手前まで行ってバイパスに入り、バイパスの途中でグンポルに向かう街道に折れ、モジ
ョサリを経て素晴らしい道路を走ってから大渋滞するマラン〜スラバヤ街道を突破し、パ
スルアンに向かう国道1号線に入って行ったものだ。

頻繁にトロウランを通り過ぎながら、観光旅行をしていたわけではないため毎回通り過ぎ
ていただけで、道路からの風景は飽きるほど横目で眺めたが運転中だからじっくり見るこ
ともできず、道路の印象しか記憶に残っていない。あのときトロウラン観光をすればよか
ったと今、痛切に悔やんでいる。わたしが後悔していることは山ほどあるが、その山の中
の真ん中近くにこの一件も鎮座している。


モジョクルトという地域がブパティ領として発足したのが1293年5月9日であり、こ
れは東ジャワ州内で10番目に古い県とされている。しかしモジョパヒッ王国が滅びたあ
と、この地はアディパティ領ジャパンKadipaten Djapanという名称で呼ばれるようになっ
たという記事が見られるので、モジョパヒッ王国ではモジョクルトと呼ばれていたが、そ
れ以後はジャパンと呼ばれ、オランダ東インド政庁がジャパンという言葉を嫌ってモジョ
クルトを公式地名にしたという経緯になっていたのかもしれない。だが、その筋立てを確
定させてくれないデータがあるのだ。

モジョパヒッ王国はまずジャワ島東部の大半を征服し、12の地方を直轄領にして王家の
一族を統治者に封じ、王国の中心を成す地域としてヌゴロアグンと呼んだ。次のような地
方がヌゴロアグンを構成した。( )内は今の地名。
Kahuripan (Sidoarjo)
Daha (Kediri)
Tumapel (Malang)
Wengker (Ponorogo)
Metahun (Bojonegoro)
Wirabhumi (Blambangan/Banyuwangi)
Paguhan (Blitar)
Kabalan (不明)
Pawanuan (不明)
Lasem (Rembang)
Pajang (Surakarta)
Mataram (Yogyakarta)

統治者としてそれぞれの領地に封じられた王家のひとびとはBhreの尊称で呼ばれた。例え
ばブレウィラブミというのは本人の名前でなくてブランバガンの統治者という意味だ。歴
代の王位に就いた者はたいていがブレの時代を経験しており、しかも移封がなされること
もしばしばだったから、ある王子がブレウィラブミの次にブレカフリパンになり、そして
大王になるようなことも普通に起こった。

モジョクルトがブレによる統治の対象に入っていないのは、大王の直轄領だったからでは
ないだろうか。そのために王の直属の家臣に当たるパティが統治したのではないかという
気がする。


モジョパヒッ王国が滅んでイスラム化が進行し、ドゥマッ⇒パジャン⇒マタラムと覇権が
移り変わってマタラムが東ジャワを平定したころ、モジョクルトはジャパンと呼ばれてい
たというのが、おおよそのインドネシア語記事に書かれている内容なのだが、モジョパヒ
ッ王国が残した記録の中にジャパンの地名が出現している。[ 続く ]