「ジャワの田舎にJapanがある(3)」(2023年09月08日)

1365年に完成した、モジョパヒッ王国第4代目のハヤムルッHayam Wuruk王(在位1
350−1389年)への讃頌であるヌガラクルトゴモNegarakertagamaには、王がラマ
ジャンへの旅を行ったときに最初に立ち寄ったのがジャパンであったと記されている。

この事実から推測されるのは、
1.ヌガラクルトゴモに記されたジャパンという名称がブパティ領という広域名称でなく
て宿泊した場所の地名と思われること
2.このジャパンが現在のジャパン村ではないかということ。王が宿泊した建物はジャパ
ン村役場としてまだ残されているという話だ。
3.広域名称としてのブパティ領がそのころモジョクルトと呼ばれていたのかどうかの確
信が持てなくなるということ
などだろう。


たとえば現在のモジョクルト県の中にジャパン村があるという視点に重ね合わせてこのポ
イントを見るなら、ハヤムルッ王が宿泊したのはジャパン村であり、ジャパン村を包含し
ているブパティ領の名称がその当時本当にモジョクルトだったのか、それともブパティ領
自体もジャパンと呼ばれていたのかどうかがはっきりしないように思われるのだ。ヌガラ
クルトゴモの書にモジョクルトという言葉は見つからない。

元スギハン部落長だったジャパン村の地元長老の話によれば、ジャパン村はかつてのブパ
ティ領ジャパンの行政センターが置かれた場所だったそうだ。スギハン、ダルマン、クピ
ンドンの三部落がジャパン村の中心であり、今はモジョクルト県になっている昔のブパテ
ィ領ジャパンはマタラム王国の支配下でひとつの有力な地方領地になっていた。
このジャパン村にはチャンディや僧房の遺跡があって、モジョパヒッ王国時代から僧の修
行拠点が置かれていたことが推測されている。

1709年、マタラム王国の開祖パヌンバハンセノパティがブパティ領ジャパンを支配下
に置いた。そのころブパティ領ジャパンは旧モジョパヒッの王都のほぼ全域を統治する広
さに拡大していた。パヌンバハンセノパティはブパティ領ジャパンをウドノブパティモン
チャヌゴロウエタン(東部外領ウドノブパティ)の統治下に置いた。

マタラム王国が1755年のギヤンティ協定でスラカルタとヨグヤカルタに分裂したとき、
ジャパンはヨグヤカルタが取り、ウィロソボがスラカルタ領になった。ウィロソボはトロ
ウラン郡の西に隣接していて、現在はジョンバン県モジョアグン郡という名称になってい
る。


1811年にダンデルスがエンゲルハルトに送った手紙に簡単な地図が添えられていて、
そこにジャパンの地名を見ることができる。

フランス領になっていたジャワ島の旧VOC統治地域をイギリス東インド軍が1811年
に占領したあと、ヨグヤカルタとスラカルタが連合してラフルズの統治に反抗し、181
2年に戦争を起こした。オランダ人に頭を抑えられていた両王家が、この局面でイギリス
人を追い払えば全ジャワ島は棚ボタだと考えたのだろうが、現実はそう甘いものでもなか
った。

どうやらしなくてもよい戦争をしてしまったらしく、その当時世界最強のイギリス軍に歯
が立つはずもなく負けてしまい、スラカルタはウィロソボ・クドゥ・パチタン・ブローラ
を、ヨグヤカルタはジャパンといくつかの領地をイギリスに割譲させられた。

ラフルズは自著History of Javaの中でジャパンという地名についてのいきさつを紹介し
ているそうだ。[ 続く ]