「ジャワの田舎にJapanがある(4)」(2023年09月11日)

ラフルズが最後まで反対したジャワ島のオランダ王国への返還が行われてイギリス人が1
816年にジャワ島を去ると、イギリスに割譲された上述の地域はオランダ東インド政庁
の支配地になった。

ディポヌゴロ戦争のとき、ジャパンのブパティであるトゥムングンスモディルジョがパゲ
ランディポヌゴロと口論をしたという記録が見られる。スモディルジョはバリとジャワの
混血で、王家の血を引く人物だった。

sumoなどという言葉が人物名に入っていて、また日本に関連する言葉のような印象を受け
てしまう。確かにモジョクルト近辺を車で走るとSUMOという道路表示板を目にすることが
あるのだ。わたしは最初それを地名かと思ったのだがそうでなくて、SUrabaya-MOjokerto
自動車道をSUMOと省略したものだった。

1838年9月12日付のオランダ東インド総督決定書第14号によって、ブパティ領ジ
ャパンとウィロソボを合併させたモジョクルト県という行政区画が設けられた。それ以来、
ブパティ領ジャパンという広域名称はその地方から消滅し、ジャパンの名はひとつの村に
だけ残されたということになる。


この仮説をまとめると、こんな歴史になるのかもしれない。
現在のモジョクルト県にあるジャパン村はモジョパヒッ王国建国時に王国直轄領内に設け
られたブパティ領ジャパンの首府が置かれた場所である。だがモジョパヒッ王国時代にブ
パティ領ジャパンの名前は、王都トロウランの陰に隠れてほとんど歴史記録の中に姿を現
わさなかった。

モジョパヒッ王国滅亡後、崩壊したトロウランの後継者となったブパティ領ジャパンの統
治下にその地方一帯が含まれたことで、ブパティ領ジャパンの名前が歴史記録に登場する
ようになった。チャングやウィロソボまでがジャパンの傘下に収まり、多分広域名称とし
てのジャパンの領域が拡大したためだろう、ブパティ領でなくアディパティ領ジャパンと
述べている記録も見られる。

現在のモジョクルト市はブパティ領ジャパンの中に含まれているエリアだった。そしてオ
ランダ東インド政庁が1838年にブパティ領ジャパンをモジョクルト県に変更し、行政
センターをほんの3〜4キロ北東の、現在のモジョクルト市に移したことで、ジャパン村
は往年の隆盛を失って衰微していったというのが、わたしが立てる仮説の物語である。


どうやら、モジョクルトにあるジャパンという地名は日本との縁もゆかりも持っていなか
ったように思われる。ジャパンと発音されるジャワ語の単語は確かに存在しているのだ。
ガムランの世界にkenong japanという大型のクノンがあり、この楽器が単にジャパンとだ
け呼ばれることもあるので、ジャワ語にジャパンという単語が存在していると言っても間
違いにはなるまい。しかしその楽器の名称とモジョクルトのジャパン村との関係はまった
く分からない。

クノンのジャパンを英語に由来するジャパンだともしも言い張られたなら、ジャワ語もイ
ンドネシア語も日本を指す単語はポルトガル語に由来するJepangなのだから、あえて英語
で日本を示す必要性がどれほどあっただろうかということを反証にあげたいと思う。よし
んば近代以降にわざとそのクノンに英語のジャパンを使ったことが起こり得たとしても、
英語のジャパンがモジョパヒッ時代のジャパン村にタイムスリップすることはできないの
ではあるまいか。

なぜなら、ヨーロッパ人の東方探検のメインストリームは14世紀ごろから始まっており、
おまけに東インドに最初にやってきたイギリス人は1598〜1600年に東インドに向
かうオランダ船の水先案内人として乗り組んだジョン・デイヴィスだったそうだから、モ
ジョパヒッ時代のジャワ人が日本を意味する英語のJapanを耳にする可能性があったよう
には思えない。歴史的な世界の探検家の詳細については、英語ウィキぺディアのList of 
explorersが参照いただけます。[ 続く ]