「識字社会の没落(前)」(2023年09月14日)

ライター: パラマディナ大学副学長、ユディ・ラティフ
ソース: 2006年1月13日付けコンパス紙 "Gerak Mundur" 

自分の民族を卑しめるつもりはまったくない。しかし一民族が反照性を失ったらどうなる
だろうか?その民族が自分自身を測定し、改善し、刷新するための学習ツールを失うこと
は間違いあるまい。

学習能力を持たないと、民族の動きはゾンビのようになる。内面の発育が外見的な成長に
追いつかないのだ。論理的なシステムを十分把握しないまま、モダン文明の進歩が示す姿
をわれわれはすぐに真似る。世界のファッションの忠実な追従者になって、自分が進歩し
たと感じ、かっこうを付ける。ところが本質的には子供時代への固着を起こしているピー
ターパンと同じで、文明前の相からたいして変化していない。それどころかもっと悪いこ
とに、文化ストラテジーの面でわれわれは良くないものを維持し、良いものを捨てる傾向
を持っている。

インドネシアのメトロポリタン都市住民は、時の流れとともにますます不満と苦情の網の
中にからめとられている。所かまわず建てられるスーパーモールの増加と集団学習・意見
交換・文化創造の場であるアゴラ空間が狭まるばかりの状況がエスカレートしていること
にそれは歩を合わせているように見える。

ハバーマスが憧れた、金銭の力がもたらす不平等に影響されない対等で自由な理性的対話
の場としての公共空間は、資本の攻勢によってますます片隅に追いやられている。健全な
公共空間のないインドネシアの大都市は、ベニスやパリのような高度な文明ポリスとして
成育することができない。それはアルファラビの言うジャヒリヤの町を繁殖させるための
好環境を提供するコンクリートジャングルにとどまるだけなのだ。

< 啓蒙の世紀の孫たち >
これはわれわれの文明発展における退歩なのである。ジャカルタ・バンドン・スラバヤ・
メダンなどの大型モダン都市はヨーロッパの啓蒙精神が生んだ孫として発展した。19世
紀に行われたオランダ植民地支配の体制作りに歩調を合わせて啓蒙スタイルの公共空間と
社会機構の種がヌサンタラに蒔かれた。1817年、ヨーロッパ式小学校がジャカルタの
ヴェルテフレーデン(メンテン)に作られた。その同じ年にバイテンゾルフ(ボゴール)
の植物園と、それに関連する研究施設がオープンしている。

それと同時に社交クラブsocieteitがいくつかの都市に開かれた。ジャカルタにはハルモ
ニーとコンコルディア、ヨグヤカルタにデフェレニヒン、そしてバンドンやスラバヤにも
漏れはなかった。それらの諸機関の誕生は印刷メディアやオランダの学術ジャーナルの登
場と同期した。オランダの学術ジャーナルは東インドで出版されたものとオランダ本国か
ら輸入されたものが入り混じった。社交クラブは図書室や出版設備を持った。

ヌサンタラの諸商業都市が高度な文明を持つコスモポリタン都市に成長するための基盤と
なる情報と知識及びグローバル文化の流通を、知識インフラとそれに付随する公共空間を
伴うこの新たな社交上の諸形態が実現させたのだ。

そこで追及された教育クオリティを思い返してみよう。ELSのような初等教育ですら、
いくつかの外国語が生徒に教えられた。HBSのような中等教育でもカリキュラムはヨー
ロッパに負けない重厚さを持たされ、落第率はオランダ人子弟の間ですら相当高いものに
なっていた。

そんな高いクオリティの中ですら、全国のHBSの間で最優等生の座を勝ち取ったアグッ
・サリムのようなインドネシア人生徒が頭角を示した。正しい教育環境を与えられたなら
インドネシア人でも優れた成績をあげることができる事実をそれが証明している。[ 続く ]