「識字社会の没落(後)」(2023年09月15日) 研究成果の質と量を思い返すなら、1929年にノーベル科学賞を得たエイクマン博士は インドネシアで行った研究成果が賞されたのである。博士は1886年にインドネシアに 設立された病理解剖学細菌学研究所の初代所長を務めた。 農園主たちが積極的に諸研究センターの興隆を支援したことも言及し忘れてはならないで きごとだ。茶農園主が設けたボスカ天文台、ゴム農園協会がボゴールに作ったゴム研究所 などの少なくない例を見いだすことができる。 1930年代末には高い研究成果を誇る調査研究施設が26ヵ所もインドネシアに存在し ていた。1930年代に起こった世界恐慌は欧米の優れた科学者がインドネシアへ移住す ることを促し、移住先で実感したインドネシアをかれらは科学のパラダイスと呼んだので ある。当時のインドネシアで発行された学術ジャーナルが世界中から高い評価を与えられ たことは決して不思議でないのだ。中でもその筆頭は熱帯植物に関する調査研究だった。 日本がインドネシアを占領した時期、それまでにインドネシアで出された学術論文を収集 するためにニューヨークで新たに図書館が作られることさえ起こった。 < 識字社会 > 民衆に読み書きの意欲を鼓舞するための政府のイニシアティブもあった。その例証が19 17年のバライプスタカの設立であり、翻訳プロジェクトの実践だった。その裏側にどの ような隠された意図があったにせよ、バライプスタカは東インドの一般庶民に廉価な読み 物を供給する重要な役割を担った。 加えてバライプスタカは、ブミプトラ文筆家たちが西洋文学を身に着けるための練習場の 役割をも果たした。モダン文学のお手本を身に着けるためのプロセスは東インドの文筆家 たちがユニバーサルな識字社会精神につながる道を開いたのである。 その結果、都市部でブルジョアジーの生育が起こるとともに、学問文化の創造性が培養さ れる拠点が続々と湧きおこった。そこでは上流階層が上級文化を支える柱になった。イン ドネシアの文明クオリティが少なくとも東南アジア地域の中で進歩の目盛りにされたのは 少しも不思議なことでない。 マレーシアと比較して見ればよい。20世紀の初めまでマレーシアの海岸諸都市の住民は ヨーロッパ人、華人、その他の外来民族がメインを占めていた。最良の知識インフラが都 市部に作られたためマレー半島人は教育面で大幅な遅れをとっていた。地元政府が民族の 進歩を推進しようと計画したとき、政府はその当時教育面でより進んだレベルにあったイ ンドネシアから多数の教師を招いた。文化的な親しさもそこにメリットをもたらした。 しかしながら、インドネシアの大都市は当初の設計図からその歩みを大きく逸脱させてし まった。都市部でのニューリッチの爆発的増加が上級文化の成長を伴わないものになって いる。メリトクラシーに欠けた成金の増加は腐敗文化・浅薄な文化の賞味・反インテリ主 義を生んだ。 脆い社会認識インフラは政治ソサエティのみならず市民ソサエティにも批判的談論能力を 弱める結果をもたらした。この退歩がいつまでも続けられるなら、インドネシアは覚醒の ない歴史の歩みを続けることになるだろう。良くないものを維持し、良いものを捨てるあ り方で。[ 完 ]