「中国製品はなぜ廉い?(1)」(2023年09月18日)

遠い昔、今はインドネシア共和国になっているオランダ東インドの地で、ほとんどの工業
製品がヨーロッパから輸入されたりヨーロッパの生産者がオランダ東インドで製造してい
た状況に変化が起こった。メイドインジャパンの廉い商品が市場に流入して来るようにな
ったのだ。第二次世界大戦が勃発する前の、20世紀初期の時代だった。

もちろんそれ以前から、ヨーロッパの商品に似せて東インドプリブミが作る産品もちらほ
らと存在していた。それはもちろん品物の種類による。価格の廉さという点でプリブミの
家内工業製品に太刀打ちできる物はなかっただろうが、品質と価格を相乗した効果を評価
できる人間が財布を開くような品物ではなかったはずだ。そうではあっても、市場が人種
を規準にした二つの極に大別されていたのだから、プリブミが作るもどき商品にも低経済
市場における商品価値はあったことだろう。今では人種という規準が消滅したものの、市
場が高低二極に分裂しているそのありさまはインドネシアで依然として継続しているよう
にわたしには感じられる。

低コストで作られ低価格で販売される商品に品質の高さを求めるのは非常識にちがいある
まい。わたしは品質という言葉を客観的に比較対照され得るものとしてここで使っている
ことをお断りしておきたい。個人個人の感覚的な物差しは対象に含めていない。


インドネシアの平均生活支出金額が小さいために、数千万円を貯めてインドネシアで生活
すれば大金持ちの暮らしができると勘違いする日本人が少なくないそうだ。インドネシア
はまだまだ低経済階層の人口比率が高く、かれらは廉価低品質の生活をしている。そのた
め全国民を平均すれば生活支出金額は小さくなり、生活クオリティも低いものになる。勘
違いを起こしている日本人はどうもクオリティの面が視野に入っていないようにわたしに
は思われる。インドネシアの支出金額レベルで日本並みの生活レベルをインドネシア人が
得ているなら、日本の国政機構は崩壊するだろう。

生活インフラ・社会安全と治安・財産保管におけるリスクなどが、国民の末端に至るまで
インドネシアと日本で同じようなレベルで営まれていると想像することが大いなる勘違い
ではないだろうか?水道の蛇口をひねればそのまま飲んでもOKくらいの澄んだ水がほと
ばしり出て来る日本のインフラと、蛇口をひねっても一滴も出て来ないことの方が多く、
たまにチョロチョロと濁った水が出て来るインドネシアを比較すれば一目瞭然ではないか
と思われる。

そんな低クオリティを避けるためにはホテルやマンションで暮らさざるを得ないことにな
り、そうやって高経済階層の住環境に足を踏み入れてしまえばインドネシア型大金持ち
(決して日本型ではない)の暮らしの一端に触れることはできるだろうが、数千万円など
は勘違い人さんの思っているよりはるかに短い期間に底をついてしまうのではあるまいか。


アジア域内先進国として工業化が進展した明治以後の日本で、西洋文明に従った生活に使
われる品物を日本人が作るようになっていった。重工業化が一段落したあとでの軽工業発
展の歴史という、西洋と反対の流れになったようだ。国策として工業化が行われたなら、
それが順当な順番になって当然だろう。おまけに軽工業化を進展させなければ国民生活の
西洋文明化に至るわけがないのだから。

そして当然のことながら、軽工業品は西洋諸国との国民所得の差に応じたコストで生産さ
れ、国民の購買能力に応じた価格で国内市場に流通した。その軽工業製品生産の場には、
アジア文明が元来持っていなかった人間のクオリティ要素のいくつかを学習し身に着ける
機会が用意されていた。高品質の工業量産品製造に携わる人間のクオリティということだ。

これも西洋人が先に身に着けていたものを日本人が学ぶ形で進行したようだ。明治政府が
声を大にして叫んだ「西洋文明に追い着け、追い越せ」を実現させるための「和魂洋才」
精神の一実践形態がそれだったのではないかとわたしは考えている。[ 続く ]