「貧困を売り物にする(前)」(2023年10月02日) ライター: パジャジャラン大学インドネシア語文法学者、リー・チャルリー ソース: 2003年2月15日付けコンパス紙 "Mengiklankan Kemiskinan" 故ベンドッ氏は言った。「Terang.... terus....」 昨年、電力料金値上げに関連して国有電力会社PLNが流したTVコマーシャルのひとつ にそのシーンがあった。テレビ視聴者はそれを見てほほ笑んだ。続いて、小民を代表する シンボルのひとりであるベンドッ氏への憐憫を視聴者は感じた。CMの機能とはそういう ものだ。視聴者の感情が買い取られるのである。最終的にわれわれは感動して、でなけれ ば仕方なく、悪感情のしこりを残さずに電力料金値上げを受け入れるのであった。 そのCMの中に、簡素住宅カテゴリー(電力容量450W以下)は低階層庶民に優しい値 上がりになるような約束が述べられていた。われわれはそれを信じて受入れ、ああよかっ たとわずかに胸をなでおろすのである。 あるクレジットカード発行銀行のCMでは、エグゼクティブ風の格好をしたひとりの人物 が称賛されるべきすばらしい行為を行う様子が描かれている。かれは何かを買い物しよう としていたが、そのとき靴売場の陳列棚の靴を知らない子供が憧れの目で眺めているのを 見た。その子供は明らかに「欲しくてたまらないが自分が買えるものじゃない」という独 白を画面いっぱいに漂わせている。エグゼクティブ氏は自分の買い物をやめてその靴をカ ードで買い、それを見ず知らずの子供にプレゼントしたのだ。「あなたが愛を実現させる ことをわたしどもがお手伝いします」というようなメッセージがきっとそのCMの意図だ ったのかもしれないが、見方次第では「右や左の皆さんにご馳走しプレゼントするために カードを使い続けなさい。知らないひとにすらカードで何かを買ってあげなさい」と言わ れているような気がしないでもない。こんなナンセンスなCMがクレジットカード保有者 の良心を呼び覚ましてカードの使用金額が跳ねあがるようになるのかどうか、わたしには わからない。 ただまあ、そのCMが語りかけている「貧困者を助けよう」という精神は、クレジットカ ードを持っていようがいまいが、汲み取ってしかるべきだろう。 ジャカルタは大雨だ。傘貸しサービスをしている小さい子供がお客のところに傘を持って 来た。(訳注:ojek payungと呼ばれる子供の傘貸し商売では、子供は大人用の傘をひと つだけ持ってくる。客がその傘を使って雨の中を濡れないように移動するとき、子供はび しょ濡れになってその後ろに付いて歩く。目的地に着くと、客は傘を子供に返し、借り賃 を払うのである。) 客の青年は子供を憐れに思い、子供を横に並ばせて会話する。そして雨中の移動が終了し たとき、一枚のルピア紙幣が子供の手に渡された。「こんなにたくさん?ありがとう、お じさん。」子供はそう言いながら雨の中を走り去っていく。 このCMの制作者の意図を解釈しようとして深く考え込む必要はないし、宣伝商品との関 係を詮索する必要もない。CM自体の発想はオッケーなものだ。残念なのは、傘貸し少年 が?せておらず健康に太っていたことであり、憐みは迷走して不思議の念に変わった。お かげでこのCMはリアリティを失った。 *** 上で例に挙げた一連のCMの共通項は貧困を売りにしている点だ。このコンセプトはテル コム社が最近電話料金値上げを行ったときにまたまた登場した。CMの筋書きはこんなも のになっている。 ひとりのトウガラシ農民が大損に打ちのめされている。というのも、トウガラシの実を摘 んで用意が整ったら取りに来ると購入者が約束したにもかかわらず、農夫の側は用意が整 ったというのに購入者はいつまでたってもやってこない。そのためにその農夫が摘んだト ウガラシは腐ってしまった。 視聴者はその成り行きに心を揺さぶられて、多分こんな結論を思い浮かべるだろう。もし も電話でコミュニケーションがなされたなら農夫は購入者の正確な最新状況と意向を知る ことができて、闇雲にトウガラシの実を摘んでしまうことをせず、バイヤーが必ず買うの か買わないのか、買うのならいつ取りに来るのかという情報に従ってトウガラシの実を摘 むかどうか、摘むなら最適な時期はいつなのか、といった自分の行動の指針を得ることが できただろう、と。奥地の辺鄙な村にも電話がありさえすれば・・・・ [ 続く ]