「タンジドル(2)」(2023年10月03日)

1984年発行のインドネシア百科事典には、タンジドルの語源は「弦楽器の演奏グルー
プ」を意味するポルトガル語のタンジェドルだと書かれている。現代インドネシアでタン
ジドルという言葉は、管楽器を演奏する楽譜の読めないストリートミュージシャンのニュ
アンスで使われる傾向にある。ブタウィ人はタンジという単語を音楽や曲の意味で使うこ
とがある。吹奏音楽隊の語感はそこにない。

オランダ人歴史家はタンジドルについて、「その祖先が出現したのはVOC時代だった」
「ご主人様が奴隷にそれぞれの楽器演奏の任務を与え、楽隊演奏をかれらの仕事にした」
などと説明している。インドネシア人歴史家もタンジドルの源流について、VOCが築い
た都市バタヴィアの発展史において、城壁に囲まれたバタヴィア城市内での生活が不健康
さを増したために住民が城壁の外の南部地域にヴィラを作って住むようになった18世紀
初期から中ごろにかけての時代が発端だと解説している。 

VOC高官たちは南部地区のジャングルを開いて明るく広い空間と澄んで健康的な空気に
満ちた居住エリアを作り、そこに豪壮なヴィラを建てて住み、百人を超える奴隷をそのエ
リアに住まわせて栄耀栄華な暮らしを愉しんだ。そんなオランダ人の代表者のひとりが脱
バタヴィア城市初期の著名人、コルネリス・シャステレインだったと見て良いだろう。


シャステレインは1691年から1704年までバタヴィア南部のあちこちを切り開いて
農園や牧場を作り、最終的に現在の西ジャワ州デポッ市中心部の大地主となった。かれは
没する前に自分の奴隷をすべて自由人にし、デポッを解放奴隷の村にした。

その後VOCの諸高官たちもチリリタンブサール・ポンドッグデ・タンジュンティムール
・チセエン・チマンギスなどに村を作り、そこでは地主のご主人様が催す晩餐会や園遊会
にヨーロッパ音楽を奏でて招待客を愉しませることが行われた。西洋の管打楽器を使って
西洋音楽を演奏したのはご主人様の奴隷たちだったのだ。ご主人様は奴隷に楽器演奏を学
ばせてトランペット担当奴隷やチューバ担当奴隷などに任じ、楽隊を作らせた。楽器を演
奏していれば必ず飯が食えたのだから、自分もその時代の楽隊奴隷になりたいと思った管
楽器演奏好き読者はいらっしゃらないだろうか?

そんな奴隷楽隊員が1860年の奴隷制度廃止によってオランダ人トアンの下から去り、
仲間たちと楽隊稼業を始めたのがタンジドルの祖先であるというのが歴史的経緯だそうだ。
実際にブタウィのタンジドル楽隊はほとんどがカラワン・ブカシ・チビノン・タングラン
などのジャカルタ辺縁部にいて中心部には見当たらず、また1894年にオランダで作ら
れた金管楽器が現存するタンジドル楽隊に残されているといった事実がその説をバックア
ップする傍証となっている。

タンジドル楽隊員は楽譜が読めないのが普通であり、演奏レパートリーは先祖代々耳伝え
で伝承されてきたものだ。だから現代タンジドル楽隊のレパートリーには現代インドネシ
ア人になじみのない、古いオランダ曲がたくさん残されている。こんなタイトルの曲を知
っているインドネシア人がどれほどいるだろうか。Batalion, Kramton, Bananas, Deisi, 
Welmes, Was Tak-tak, Cakranegara...
もちろんブタウィのエバーグリーン歌謡もタンジドル楽隊のレパートリーに入っている。
Jali-jali, Surilang, Kicir-kicir, Cente Manis, Stambul, Parsi...


だったら、ブタウィのタンジドルという楽隊とその音楽は元々ポルトガルの音楽あるいは
楽隊との直接的な関係を持っていなかったということにならないだろうか?オランダ人が
バタヴィアで始めた音楽隊とその音楽スタイルにどうしてポルトガル語のタンジドルとい
う名称が付けられたのか、これはわれわれを途方に暮れさせる謎のラビリンスになってし
まいそうだ。ひょっとしたら、これも物自体と名称の来歴が異なる由来学の一例なのだろ
うか?わたしが主張しているジャガイモの由来のように。[ 続く ]