「タンジドル(3)」(2023年10月04日)

ポルトガルに由来するインドネシアの音楽について触れるなら、ファドが源流と言われて
いるクロンチョンが思い浮かぶ。クロンチョン音楽発祥の地とされている今の北ジャカル
タ市トゥグ地区は1661年にVOCバタヴィア市政がポルトガル人解放奴隷を入植させ
た土地だった。ポルトガル人奴隷はカトリック教を捨ててプロテスタント教徒になること
で奴隷身分から解放されたのだ。


イベリア連合を打倒する戦いをアジアで展開していたVOCは1641年にマラカを陥落
させてその地を奪った。VOCはマラカばかりか、ポルトガルの拠点になっていたインド
洋沿岸から南シナ海に至るあちこちの港市を奪うことにも努め、ポルトガル人捕虜を奴隷
にしてバタヴィアに送り、新都市の建設と運営のための労働力に充てた。誤解を避けるた
めに、バタヴィアの奴隷人口はマルク地方やバリ島などの原住民が圧倒的に多数を占めて
いたことを付け加えておこう。ポルトガル人奴隷の発生は別の目的に付随して起こった副
作用だったと言える気がする。VOCがポルトガルの既存コロニーを次々と奪い取って行
ったのは、商業メリットの追求だけが目的ではなかったのである。

統一国家が形成される前の北ヨーロッパ低地地方はスペインハプスブルク王家の支配下に
あった。スペインがポルトガルを従えてイベリア連合を形成したとき、現在のオランダ王
国を構成している各州はスペインの支配から独立する運動を進めていた。

オランダ人にとっては、自分たちの父祖の地に君臨しているスペインからの独立運動を成
しとげるために、スペインがポルトガルの富を吸い取って肥るのは絶対にさせてならない
ことだったはずだ。ポルトガルの富を枯渇させることは、オランダ人の富を増やすと同時
に本国の独立に貢献するという一石二鳥になる。オランダ船がポルトガル商船を襲う海賊
行為を盛んに行ったのは、そういう政治的な背景のためだった。


ここで使われているポルトガル人という言葉の内容が誤ったイメージを誘う懸念をわたし
は強く感じている。人類の過去の歴史においてXX人というのは人種的な基準で使われる
のが普通だったからだ。だからポルトガル人という言葉は多分、ヨーロッパ大陸西端にあ
る土地をその母国にし、そこで生活し、そこで自らの文化を育んだ白人種を読者に想像さ
せるのではないだろうか。ヨーロッパにおけるポルトガル人はそれで間違いないのだが、
アジアにいるポルトガル人というのはそうでなかった。

小国で人口も少なかったポルトガル王国がアフリカ〜アジアに渡洋進出したとき、人的資
源の対策は重要な問題になっていた。ポルトガルの軍船は要所に位置する港市を軍事攻撃
して征服し、そこをポルトガルのコロニーにした。とは言うものの、自国民をコロニーに
送り込んでそこで生活させ、そのコロニーを恒久的に自国の領土にするという方法が容易
に行える国とそうでない国があったはずだ。16世紀はじめごろの、わずか100万から
多くてもせいぜい140万人程度の人口しかないポルトガル王国は、コロニー住民を国外
で賄う方針を採った。

異郷のアジアにある港市を征服したポルトガル人兵士たちは、戦後処理を一段落させると
捕虜にした原住民の女をあさり始めた。それは太古の昔から直立歩行するサルたちが行っ
ていた行為と何の違いもない。村と村の間の戦争は食糧をはじめとする財、労働力、そし
て女の略奪を目的にして行われていたはずだ。ただ、そのあとが違っていた。ポルトガル
人の女あさりは男の性欲処理を越えて、子供を作り育てることが実質的な目的になってい
たのだ。ポルトガル人は征服地で地元の女に産ませた子供を育て、非白人とポルトガル人
の混血者を量産することを図ったのである。その混血者たちはメスティ―ソと呼ばれた。
[ 続く ]