「貧困は政治コモディティ」(2023年10月04日)

ライター: インドネシア医師同盟中央役員会元会長、カルトノ・モハマッ
ソース: 2006年4月26日付けコンパス紙 "Rakyat Kecil" 

社会の貧困階層に属し、現代人としての妥当な生活を営むことを可能にするための種々の
公共サービスがそこにまで届ききらない人々という語感を小民(rakyat kecil)という言葉
は持っている。

総選挙の時期が近付くと小民たちは、かれらの状態を改善するための甘い公約を振りまく
政治家たちの口の端に上る。政治家が小民に対して公約を振りまくとき、かれら小民は意
識されないまま小民でない位置に移されているのだが。little peopleという言葉をジョ
セフ・ミッチェルは1943年の作品McSoley's Wonderful Saloonの中でひいき目に扱っ
ている。「little peopleなんかいない。かれらはあんたと同じくらいにbigなんだ。あん
たが誰であろうとも。」


小民の頭上に自分は座しているのだという感覚は、社会エリートたちが小民の直面してい
る問題を解決しようと試みるとき、そのやり方にあからさまに反映される。たいてい義援
金分配、医療奉仕、食糧支給などのような慈恵的なプログラムが用意されるのである。

ハーバード大学医学大学院メンバーで人類学博士でもあるポール・ファーマーは、チャリ
ティプログラムに加えてエリートたちは小民に対してしばしば社会公正や社会開発を約束
すると述べている。だがわれわれの経験によれば、最初は貧困撲滅のためだというお題目
の付けられた開発プログラムがいざ行き着いて見れば、金持ちをもっと金持ちにし、貧困
者をさらに貧困化させる結末となって実現している。少なくとも、貧困者の数が減ること
すら起こらず、反対に増加させているのである。

エリートたちは、自分たちがいかに心の広い善良な博愛主義者であるかということをさま
ざまなチャリティプログラムの実践を通して示したがっているように見える。貧困はエリ
ートたちにとってのマーケティング商品になりうるのである。その見地からものごとを眺
めるなら、チャリティプログラムを行うエリートたちは本当のところ、貧困を減らそうと
いう誠実な意図を持っていないのではないかという疑惑が湧きおこって来る。パウロ・フ
レイレが「被抑圧者の教育学」の中に述べたように、「その寛大さを示す機会を維持する
ために、抑圧者は不正義を永続させなければならない。死、絶望、貧困によって育まれる
不正義を。」がそれなのだ。

< エリート層の商品 >
貧困と社会不公正が存在し続ける限り、フィランソロピーデモンストレーションの口実も
なくならない。ましてや、インドネシアにはこんなことわざさえあるのだ。「貧困とはエ
リート層にとっての商品である」。国民の貧困を資金集めのツールにすることができる。
かつてスハルト時代にこんなことがあった。知事や県令が自分の行政区域内の貧困者数を
報告するように命じられたので、みんな実態よりも小さい数字を報告した。ところがその
数字は国から地方自治体に下す補助金割当を決める根拠に使われるものであることが明ら
かになったとたん、みんなが報告数字を上方修正した。

チャリティプログラムを通じて博愛主義者的姿を示そうとする姿勢はたいてい、民衆が貧
しいのは本人のせいだという見解を基盤に踏まえているのが普通だ。貧困は怠惰・低学歴
・家系・宿命といったことがらの帰結なのである。エリート層が貧困者を自分の責任の一
部分として扱っていないせいだという思いなど、エリート自身は夢想だにしない。解放神
学信奉者たちはその問題を構造的貧困と称し、統治支配者からの暴力の結果もたらされた
貧困だと述べている。

そこで使われている暴力という言葉は物理的なものよりもむしろ心理的なものと考えるべ
きだろう。貧困庶民が貧困になった原因は、統治支配者がかれらに何もしてやらず、ある
いはかれらを無視したり配慮を怠ったせいだ。かれらは公共サービスを与えられる場で不
公平に扱われ、同じ内容のものを与えられなかったのだ。かれらは簡単に病気にかかるよ
うになり、病気になったあとそれを完全に回復させる能力すら育むことができず、結局は
生産性が低下してますます貧困になっていったのである。

< 最低ランキング >
民衆の貧困に関わる問題はたくさんあり、中でも保健の分野が特に決定的なものになる。
貧困に関わる病弊を撲滅するための医学テクノロジーは遠い昔から用意されていた。結核
・マラリア・飢餓水腫など、その原因と結果は既に解明されて、克服するためのテクノロ
ジーも存在している。それらの問題に対してチャリティ式アプローチをいくら行っても、
貧困庶民の暮らしから病弊が消滅する日はやってこない。無償の牛乳や食べ物を供与し、
一時の医療奉仕を行ってもたいした効果は得られないのだ。民衆が罹病する仕組みを改善
しなければダメなのである。

貧困庶民を「憐憫を与えられるべき赤の他人」と見なしているだけでかれらを自力更生の
道に導こうとしないかぎり、そしていつまでも不公正が温存されて小民の貧困が政治コモ
ディティにされる状況が続くかぎり、福祉と人材開発のさまざまなインジケータにおける
ランキングでインドネシアはいつまでも最下位の地位に甘んじることだろう。