「タンジドル(5)」(2023年10月06日)

しかしその選択の自由を子供に与えると、母の文化を自分のアイデンティティにする子供
が何らかの確率で出現する結果にならないだろうか?そんなことになればポルトガルコロ
ニー存立の基盤に関わる問題が起こりかねない。父の文化こそが完璧な善・正・貴・優で
あり、母の文化は悪・邪・賤・劣であるという基準を家庭の中に持たせるには、男優女劣
家庭、つまりは父優母劣家庭にするのがもっとも有効だったように思われる。

男優女劣社会は男優女劣家庭を生み出し、男優女劣家庭が男優女劣社会を作るという相関
関係にあるのだから、15〜16世紀ごろのポルトガルがどれほど男優女劣社会だったか
ということ次第で、特別な仕組みなどはなにも必要でなくなるかもしれない。しかし人間
は千差万別なのだ。

インドネシアに代々住んでいる華人プラナカンの中に、父の文化を継承して中華文化の中
に浸って生活し続けている子孫がいる一方で、父の文化を継承しないで母の文化に従った
子孫もたくさんいる。見た目はまるっきり華人だが、ムスリムで普通のプリブミのような
生活をし、中国語や中国文化と無縁の暮らしをしているひとびとがいるのだ。どんな事情
や導因によってそうなったのか分からないものの、強制力を働かせず個人の自由選択に委
ねればそんなことが起こるのではないだろうか。


政治的軍事的な征服者である父とその被害者としての被征服者の母はそれ自体で既に男優
女劣家庭の基本構造になっている。とはいえ、それが必ず父優母劣になるかどうかは人間
次第だろう。ましてや劣者の母に対する同情心が子供の心に湧いたとき、それをどうやっ
て止めようというのだろうか?

ポルトガルコロニーに反逆児が出たのかどうかはよく分からない。しかしアジアのポルト
ガルコロニーがアジアにおけるポルトガル繁栄の世紀を支えたのは歴史的事実なのである。
ポルトガル王国のコロニー方針は成功していたと見て間違いないように思われる。

行ったこともなければ見たこともない祖国への忠誠を大多数のメスティ―ソに誓わせたア
イデンティティ形成がどんなメカニズムで成し遂げられたのか、人間の精神操作・心理操
作という面から、これは興味深いテーマになりそうだ。


征服されてポルトガルコロニーになった港市で半世紀ほどが経過し、純血ポルトガル人第
一世代が死に絶えてしまったあと、そのコロニーを運営するひとびとは数少ない本国派遣
の純血ポルトガル人と現地生まれのメスティ―ソ有力者になった。だからその時代には、
ポルトガルの軍事要塞にいるのは司令官以下数人の高級将校だけが純血ポルトガル人で、
下級将校と兵員は全員がメスティ−ソと解放奴隷であったり、船の船長一人だけが純血ポ
ルトガル人で乗組員全員がメスティ−ソと解放奴隷であるというような例が普通に見られ
たそうだ。そしてそんなひとびとがアジアではポルトガル人とひとくくりに呼ばれていた
のである。

共通の文化とそれを自己のアイデンティティにした人種的な複合体がアジアのポルトガル
人だったということになる。ほんのわずかの純血ポルトガル人種と大多数のポルトガル系
混血アジア人およびポルトガル文化に入ってポルトガル化した純血アジア人種がさまざま
な論説の中にポルトガル人と書かれているひとびとの正体なのだ。

純血ポルトガル人の子孫である、アジア人とのプラナカンの場合はまだしも、人種混交と
は無縁の純血アジア人の中にもポルトガルコロニーを運営する役割に加わったひとびとが
いる。かれらまでもがアジアでポルトガル人と呼ばれる人間集団の中にいたのだから、ア
ジアのポルトガル人というのがいかに人種的な枠組みから外れていたかが見えてくるにち
がいあるまい。[ 続く ]