「タンジドル(6)」(2023年10月09日)

インドのゴアやマラバール、コロマンデルあるいはセイロン、マラヤ半島のマラカなどに
いた原住民は、ポルトガルに征服されたとき捕虜になって奴隷にされた。それらの土地が
ポルトガルコロニーになったあと、純血あるいは混血ポルトガル人のご主人様に仕える奴
隷たちの中に、西洋文明に敬服してポルトガル人のようになりたいと憧れる原住民が出な
かったはずがない。その者が利発で才能を持ち、精神性の豊かな人間であるなら、コロニ
ー運営者にとっても優れた人材が増えるメリットが得られる。

ポルトガル人がその者をカトリック教徒にすることで、奴隷はポルトガル人種と対等の、
神の前における兄弟になって奴隷身分から解放されたのだ。ポルトガルコロニーはそんな
アジア人を受け入れて仲間にした。そこでも、血統や人種を基準に置かない「アジアのポ
ルトガル人」の原理が使われている。

おまけにカトリック教徒になるための洗礼を受ける際に奴隷のご主人様が名前を与えたの
だが、そのときに自分のファミリーネームを付けて奴隷に与えたから、解放奴隷たちもポ
ルトガル風の姓名を名乗るようになった。文化的な同化現象だとはいえ、純血者も混血子
孫も完璧な別人種である解放奴隷もみんながポルトガル風の姓名を名乗っていたポルトガ
ルコロニーにおける社会生活は、異人種住民の間で文化的な一体感が強いものになってい
たのではないかと推測される。

そういう人種的な複合体であるアジアのポルトガル人が水夫・兵隊・商人・宣教師・諸役
の助手などになってテルナーテやアンボンあるいはジュパラ、マカオそして日本までやっ
てきていたはずであり、日本に設けられたポルトガルの商館や教会にいたポルトガル人の
中にインド人やムラユ人の顔や肌をした人間が混じっていた可能性は小さくないようにわ
たしには思われるのだが、このポイントを調査探求なさった先人はいらっしゃらないだろ
うか?


テルナーテやアンボンあるいはジュパラなどがポルトガルコロニーになっていた時代、ア
ジアのポルトガル人たちは征服地土着の原住民をカトリック教徒にし、日曜日には教会で
聖歌が歌われ楽器の伴奏がなされるのが普通の様子だったように思われる。日曜日も教会
も、それを意味するインドネシア語はポルトガル語に由来している。

軍隊の演習やパレードがなされたとき、吹奏楽器と打楽器の楽隊がパレードの歩調を揃え
させた様子も目に浮かんでくる。それに絡んで、Burung Kakaktuaというマルク地方の民
謡を思い出した。昔書いた「ブルンカカトゥアの謎」という記事があるので、ご参考まで
に。< http://indojoho.ciao.jp/koreg/libkatua.html >


マラカをはじめとする各地のポルトガルコロニーがVOCに征服されたとき、アジアのポ
ルトガル人たちが捕虜になり、VOCの奴隷にされた。その奴隷の一部がバタヴィアの市
街建設ならびに運営のための労働力として連れて来られたとき、ポルトガルコロニー守備
隊の軍楽隊員だった者が混じっていた可能性は小さくあるまい。

かれらが奴隷のままVOC軍の軍楽隊に編入されることはきっと起こっていたはずだ。V
OC軍の兵卒はアジア人が圧倒的多数を占め、その中には自由人傭兵と奴隷兵士が入り混
じっていた。ニッポンサムライは前者を代表するものと見られており、ウントゥン・スロ
パティというバリ人奴隷がVOC軍の将校に任じられて奴隷部隊を指揮していた例は後者
を代表するものと言えるだろう。

VOC軍内の軍楽隊にポルトガル人奴隷が加わり、そこでタンジェドルという言葉が使わ
れていたことはあり得るような気がする。17世紀半ばから後半にかけてそんな状況がバ
タヴィアにあったかもしれないと思われるが、タンジドルの由来と言われている18世紀
前半のオランダ人ヴィラの奴隷吹奏楽隊とVOC軍楽隊がどのように結びつくのか、そこ
の橋渡しのイメージがわたしには湧いてこない。オランダ人ヴィラの奴隷楽隊が果たして
タンジェドルというポルトガル語で呼ばれていたのだろうか。自分の楽隊をわざわざポル
トガル語で呼ぶ趣味がご主人様のオランダ人にあったのだろうか?[ 続く ]