「タンジドル(7)」(2023年10月10日)

闇の中のそのラビリンスはしばらく置いておき、タンジドルの歴史の中に登場する「ブタ
ウィのタンジドルの父」なるアウフステイン・ミヒウスAugustijn Michielsという人物に
焦点を当ててみることにしよう。かれはバタヴィア奴隷の子孫であり、ボゴール県チトゥ
ルップの大地主になって当時のジャワ島でナンバーワンの大金持ちと世間で評された。マ
ヨールヤンチェMajoor Jantjeという名前の方が、巷では本人名よりもよく知られていた
そうだ。

マヨールヤンチェの先祖はバタヴィアに連れて来られたティトゥスという名の奴隷であり、
ベンガル人だったのでTitus van Benggalaと呼ばれていた。かれは洗礼を受けてクリスチ
ャンになり、奴隷身分から解放された。多分ご主人様であるオランダ人のトアンミヒウス
が洗礼親になったのだろう、ベンガルのティトゥスは1694年7月2日にティトゥス・
ミヒウスとして自由人になった。オランダ人は解放奴隷のことをマルデイカmardijkerと
呼んだ。インドネシア語merdekaはそれが語源だという説がある。「独立している」とい
う言葉が独立独歩自己主権を意味すると同時に自由と解放をも意味しているというのはイ
ンドネシアならではの語義だろう。


ティトゥス・ミヒウスはバタヴィア北東部のマルデイカ社会のコミュニティ総帥であるカ
ピタンに任命されて、バタヴィア統治行政の一端を担った。ティトゥスの孫に当たるヨナ
タンJonathan・ミヒウスが1776年に今のボゴール県チルンシの広大な地所を29,5
00レイクダルダーで購入し、続いて1778年に隣接するクラパヌンガルの土地を26,
400レイクダルダーで買い取った。その地所にあった山がツバメの巣の宝庫だったこと
で、かれは莫大な埋蔵金を手に入れるのと同じ効果を得た。華人商人が争ってツバメの巣
を買いにヨナタンを訪れたのである。バタヴィアのひとびとはチルンシとクラパヌンガル
の丘陵地帯を鳥の山vogelbergと呼ぶようになったそうだ。

ヨナタンは1759年にアグラフィナ・アブラハマと結婚し、ふたりの間にアンドリース、
ピーター、アウフステイン、エリザベス、ヒルトライダの三男二女が生まれた。

1769年1月6日に生まれたアウフステインは成人してからタンジュンプリオッに近い
パパンゴに居所を定めて、パンパンガース軍楽隊を統率した。オランダ人がPampangersと
呼んだのは、フィリピンのルソン島に住む、一般にKapampanganと称されている中規模種
族のひとつだった。曽祖父のティトゥスがパンパンガー連隊長を務めていたという話があ
り、その関連でアウフステインが軍楽隊に関わったのかもしれないのだが、このフィリピ
ン人の部隊がVOCにとって何だったのか、どんな素性になっていたのか、といったこと
はまったく判らない。

1820年末からアウフステインはパンパンガース軍楽隊を率いて、イギリスから返還さ
れてオランダ王国東インドになったジャワ島の都市部におけるパレードや式典、コンサー
トなどの公的な行事、あるいは私的なパーティなどでのエンタメ活動に邁進するようにな
っていった。

ひょっとしたら、このパンパンガース軍楽隊の隊員たちが適当なグループに分かれて私的
に行っていた楽隊活動がブタウィ芸能のタンジドルにつながって行ったのだろうか。であ
るとするなら歴史学者たちの言う、豪壮なヴィラで奴隷たちが行っていた吹奏楽とタンジ
ドルは間接的な関係にしかならず、系図の太い流れはパンパンガ―ス軍楽隊とタンジドル
を直接的な血縁関係で結び付けることになりそうだ。

タンジドルとパンパンガ―ス軍楽隊のつながりは大いにありそうな話のようにわたしには
思われる。だからこそ、タンジドル関係者たちがパンパンガ―ス軍楽隊を率いたアウフス
テインをタンジドルの父と呼んでいるのかもしれない。

ところが名前に使われているタンジドルというポルトガル語源の言葉は依然として闇の中
に居座っている。果たして、フィリピンを出自にしているかもしれないパンパンガー連隊
の軍楽隊が自分たちの楽隊や音楽をポルトガル語で呼んでいたのだろうか?謎は深まるば
かりだ。[ 続く ]