「タンジドル(8)」(2023年10月11日)

われわれの記憶にまだ新しい20世紀後半ごろの現代タンジドル吹奏楽隊は、祝祭や式典
に音楽の華を添える芸能としてもてはやされていた。ルバラン・陰暦正月・大晦日などの
祭りの日には、村から村を徒歩行進しながらマーチや歌謡曲を演奏して回り、ご祝儀を集
めるのが習慣だった。

それはインドネシア語でamenと呼ばれる行為だ。家々を巡って音楽や歌や踊りなどの演芸
を披露し、ご祝儀をもらう商売がアメンの本来的な語義である。日本でも昔は正月に獅子
舞が家々にやって来て舞を披露し、祝儀の入った小袋を獅子の口の中に入れてもらうこと
が行われていた。日本の獅子舞もインドネシアで言うアメンなのだ。ジャカルタのオンデ
ルオンデルも元々はプガメンpengamen(アメン演者)だった。


ジャカルタではアメン商売がだんだんとやりにくくなり、住宅地を回っても町内の家々が
みんなぴったり扉を閉ざして居留守を決め込むから、プガメンたちは都バスや電車に乗り
込んで乗客からご祝儀をもらうように変わっていった。昔は都バスに乗れば、ギターの弾
き語りや詩の朗読などさまざまな芸を行う若者が入れ替わり立ち代わりバスに乗り込んで
来たものだ。そのうちに乞食とアメンの境界線がぼやけてしまい、小さい子供がクチュレ
カンを鳴らしながら道路の交差点に赤信号で停まった車に銭乞いをする行為までアメンと
呼ばれるようになっていった。

ジャカルタのアメン行為はバタヴィアが作られた時期にまでさかのぼることができる。バ
タヴィア建設者JPクーン総督が街中でのアメン行為を禁止する法令を出しているから、
よほど目に余ったのだろうか?確か、その時期はスルタンアグンの軍事進攻の前だったか
ら、ジャワ人のバタヴィア城市内潜入対策だったのかもしれない。


祝祭日を賑わすためにオランダ人トアンの奴隷楽隊も村から村を巡って演奏する行為を古
い昔から行っていたのではないかという気がする。そして19世紀後半以降の解放奴隷楽
隊も奴隷時代の習慣を続けた可能性は小さくなさそうだ。それが現代タンジドル楽隊まで
続いて伝統化したように思われるのだが、1954年になってスディロ都知事がタンジド
ル楽隊のアメン活動を禁止した。

タンジドル楽隊は稼ぎの大きい柱を一本外されたことになる。それでも、役所の公的な儀
式や私的な結婚パーティ・割礼祝・結婚申し込みや結納の行列・花嫁行列などの注文がた
っぷり得られていたから、楽隊員の暮らしは安泰だった。


アメン活動禁止令がいつ解除されたのかよく分からないのだが、解除されたことは間違い
ないようだ。それでも村々を巡るアメン活動は下火になってしまい、その後はジャカルタ
コタで陰暦正月の15日間に限ってタンジドルのアメン活動が行われている音が聞こえて
くるありさまに変化した。

タンジドル楽隊はみんなジャカルタ辺縁部にあるため、都心部のコタまでやってくること
になる。毎日そんな往復をするのは無理だから、楽隊員はジャカルタで寝泊まりする。か
れらは15日間自宅を離れて、ジャカルタコタの中国寺院で眠るのである。


1999年2月の陰暦正月の前夜、ジャカルタコタのグロドッ地区クムナガン通りの何百
年もの歴史を感じさせる古い民家の表に置かれた椅子に6人の男性とひとりの女性が座っ
ていた。みんな初老と言ってよい年齢に見える。男性たちはトランペット・クラリネット
・コルノ・シンバル・タンブルを演奏している。コルノとはホルン、タンブルは大型ドラ
ムのことだ。[ 続く ]