「東インド(5)」(2023年10月13日)

ジャワ島がふたつあったのはマルコ・ポーロのせいだ。かれの旅行記にはおかしな話が書
きこまれていて、現物を現地で見聞きして来た旅行者の報告の真偽を計る測定儀などヨー
ロッパ社会にあるはずもないから、地図製作者は忠実にそれを地図上に反映させた。

マルコ・ポーロは旅行記に、大ジャワと小ジャワがあってジャワは世界最大の島であり、
それがもっと南にある島につながっていると書いた。1542年に作られた、北が下にな
っているアジア=オーストラリア地図では、その情報に従って地図の上部にジャワがたい
へん大きなサイズで描かれている。


1594年にへラルドゥス・メルカトルが制作した地図を元にしてヨドカス・ホンディウ
スが1606年に作ったInsulae Indiae Orientalis Praecipuae Inquibus Molaccaeと題
する地図は現インドネシア共和国の国土を紙面の中心に位置付けている。

東南アジアのコーチシナ〜フィリピンの線を上限にし、ジャワ〜ニューギニアを下限にし
て切り取った、東南アジア海洋部に焦点を当てた構図になっているのだ。ホンディウスは
VOCから得た詳細な情報をこの地図に盛り込んだ。

東インディズという地域の中でヨーロッパ人が最大の焦点を当てていたのが何だったかを
この地図が赤裸々に物語っているようにわたしには思われる。ヨーロッパ人の心理の中に
あったインディズの本質がこの地図を作らせたと言えないだろうか。

ヨーロッパ人の地図製作は最初からヌサンタラの地をターゲットにしていたとインドネシ
ア人地図専門家は述べている。それは言うまでもなく、スパイスをつかみ取りしたいヨー
ロッパ人の欲望が底辺に置かれていて、地図がそれを実行動に移すための手引きの役割を
持っていたからだ。

東インディズの地理がだんだんと明らかになってきたとき、ヨーロッパ人のアテンション
はモルッカスに向けられた。ナツメグの産地であるバンダ諸島の7つの島々、クローブを
産するテルナーテやティモール島などが重要さにおいてナンバーワンの目的地にされたの
である。

インドネシアの国土が幅広くカバーされた最初の地図はオランダ人カルトグラファーのヤ
ン・ハイヘン・ファン・リンスホーテンが作ったものだった。リンスホーテンはポルトガ
ルがインドに作ったコロニーであるゴアの修道院で働いていた時期にポルトガル人が使っ
ている地図を盗んで、市販されている地図よりずっと正確な地理情報を手に入れた。かれ
が1596年に出版した著作「東方案内記」に納められたアジア地図には極東までが網羅
されている。オランダ人の香料諸島探査、そしてVOCの東インド征服にリンスホーテン
の地図はたいへん大きい功績をもたらしたと言えるだろう。


地図は太古の昔から描かれていた。西暦紀元前に地図を作るのが得意だったのはギリシャ
人・中国人・エジプト人・バビロニア人だった。だが地球規模で世界を描く地図はヨーロ
ッパ人が完成させたものだ。それはヨーロッパ人の世界探検と歩を合わせて進行する自転
車のようなものになった。前輪の探検者が一歩進むと、後輪の地図製作者がその情報を地
図に描き加えて一歩進む。ヨーロッパ人が世界中を訪れて未知の土地を新発見し、その情
報をヨーロッパ社会に知らせることで地図製作者が世界地図の内容を充実させるという協
働関係が自然発生的に進展した。

遠い異郷の地を個人や少人数で探検や通商に訪れたり、訪れた先で聞き知った未踏の地の
情報について、ヨーロッパ人がヨーロッパ社会に報告した体験記に従って地図製作者が世
界地図にそれを描き加えた。だから最初は正確さに欠けた、想像を絵に描いたような、お
話にならないものになった。それでもその時代時代で、世界地図というものは最新のグロ
ーバル地理情報を集大成した手引書として重宝され、また一覧性の高い図鑑の役割をも果
たしていたのだ。


15世紀ごろにヨーロッパ人が作った世界地図は西暦紀元150年に書かれたクラウディ
オス・プトレマイオスの著「ゲオグラフィア」に記された内容が基本構造をなし、その上
に13世紀生まれのマルコ・ポーロの報告にある地理情報が上乗せされたものだった。そ
れをベースにしながら、わたしが先にたとえた自転車の前輪が少しずつ後輪をより広大で
正確なものに導いて行ったのである。多分ポルトガル人のバルトロメウ・ジアスが喜望峰
にたどりつき、そこで拾い集めた東方の地理情報が世界地図作製の大きい一歩になったの
ではないだろうか。

昔の西洋人が作った世界地図の歩みは、地球、つまり世界というものを西洋人が知る過程
を示すものになった。西洋人の「世界」はどんどん拡大して行き、そして「地球」は狭く
なっていったのである。[ 続く ]