「東インド(終)」(2023年10月16日)

大航海時代が始まり、植民地時代へと進んで行く中で、地図はその精度を高めて行った。
位置や形がより正確になり、また重要な港や都市が地図の中に記入された。東インディズ
地図にはジャワの他にもスマトラ・ボルネオ・モルッカス・ティモールなどの島々が名前
入りで登場し、更にバタヴィア・バンタム・テルナーテなどの港がVOCの地図に必ず書
き込まれた。

その初期のころ、ヨーロッパ船の船乗りにとって地図は金銀に勝るとも劣らない価値を持
った品物だった。中でもポルトガル人とスペイン人にとっては、まだ誰も到達したことの
ない未知の新天地に導いてくれる貴重な案内役が地図だったのである。地図はかれらにと
っての誇りの具現物だった。誇りを失うことは死と同等のものになった。

ヨーロッパで最初に印刷された世界地図はT-Oマップと呼ばれるものだ。1472年に
作られたこの地図は直径6.5センチの白黒版で、紙面がT字型に三分割されて上が広大
なアジア、下の左側がヨーロッパ、下の右はアフリカになっている。そして三つのエリア
はO形の海に囲まれているのだ。


昔の地図が一種の図鑑であったことは、ヨーロッパ人が作った地図を見ればよく分かる。
海には帆船が浮かび、ヨーロッパから遠い海にはさまざまな怪物が姿を見せている。人魚
・三叉鉾を持つ海神・人頭体馬・全身毛むくじゃらの怪人・船くらい大きいノコギリ魚な
どが遠いこの辺の海や島にいるんだぞ、という図鑑を大人も子供もいっしょになって見て
いたのではあるまいか。

コロニアル時代に入ってからは征服された土地の風景や原住民の姿が地図の中に描かれる
ようになった。図鑑ならではの扱いと言えるだろう。


インドネシアが中心になっている東南アジア海洋部を描いた最古の地図は上述の、152
2年にロロン・フリースが製作した木版白黒刷りのIndiae Orientalisと題する地図だ。
インドネシアの島々はごく少数で東インド海に浮かんでいる。

昔の地図は元来が図鑑の要素を持っていて、図の中に風物や人間の挿絵が描かれるのが普
通だった。この地図にもわずかばかりながら山や河の絵が見られる。そしてインドネシア
の島々が置かれている領域の右下端の辺りに人間の姿が挿入されているのである。

三人の人間が描かれているその挿絵をとくと観察すると、ひとりは包丁を手にして振り上
げており、その前の机には別の人間が横たわっている。どうやらロロン・フリースは東イ
ンドの島々にカニバリズムがあることを風物として図鑑に盛り込んだようだ。だがわたし
の目には挿絵の人物たちがどうもヨーロッパ風の服装をしているように見えてしかたがな
い。

その地図を所有している古地図収集家のひとりは、1510年に出版されたイタリア人旅
行家ルドヴィコ ディ ヴァルテマ著の「ボローニャ人ルドウィコ ディ ヴァルテマの
旅行記」に書かれた、ジャワ人の大半はカニバリズムを行っているという情報に影響され
たのではないかと語っている。

イタリアのボローニャに生まれたルドヴィコは1502年に故国を発してアレクサンドリ
アから中東一帯を旅し、1503年に非ムスリムヨーロッパ人で世界最初にメッカ巡礼を
行った人間になった。かれはダマスカスからハジ巡礼団体に付添いのひとりとして加わり、
その巡礼団体に付いて回ったのである。

更にかれはイエーメン〜ペルシャ〜インドを越えてセイロン〜ベンガル〜ビルマを抜け、
マラカ〜スマトラ、そしてマルクに達した。かれはバンダ島にも足跡を印して、ヨーロッ
パで黄金に比されているナツメグの原産地を訪れた最初のヨーロッパ人になった。

そこから帰郷するためにボルネオに渡り、さらにジャワ島に足を踏み入れた。どこかで誰
かから聞いた話だったにせよ、実際にその地を訪れた者がそこの人間はこんな様子だとい
う話をすれば、たいていの人間は信じるだろう。その様子は今のインターネット時代に世
界中で行われていることとたいして違っていないのではないだろうか。時と共に人間は変
化するものだが、変化を重ねた長い時間の経過後に昔の自分を振り返って見ると、「なん
だ。たいして変わってないじゃないか・・・」。[ 完 ]